自分の身を顧みず正義を語るには魂の不滅が前提として必要?
自分の身を顧みず正義を語る。ソクラテスでももちろん出てくる。ギリシアではパレーシアという言葉があった。動詞はパレーシアゼスタイやパレーシアする人という意味のパレーシアステースという関連語がある。
パレーシアは以前から取り上げていますがミシェル・フーコーが晩年の三年間テーマとして講義していて、その死によってキリスト教時代のパレーシアが展開しきれなかったのが残念。聖書のパレーシアや偽デイオニシオスのパレーシアについては当ノートでも紹介しました。
パレーシアにはじめて触れた時、面白い,という感覚と,そんなことはよく知ってるという感覚があった。
司馬遷が史記を書き始めたのだって時の王にパレーシアしたら玉を取られて宦官になり、歴史書を書き始めたと言われている。
それについては白居易もその流れでまとめたいと思い新楽府を読んでいます。
司馬遷の史記列伝は岩波文庫で高校生の時読みました。
さて、森三樹三郎の「老荘と仏教」講談社学術文庫1613によると、中国には仏教伝来前は輪廻転生という思想はなかったとのこと。それで善行を積んでも人生うまくいかなかった人々は儒教では納得できない人が多かったのだとか。
ところが仏教とともに前世、今世、来世の概念が入ってきて、今うまくいかなくても来世で報われるとした思想が入ってきた。この思想は仏教の前提となるインドの思想で、仏教はこの輪廻転生から抜ける=解脱するための思想であるので、仏教の核心ではないが、中国人は納得したとのことである。上記文庫本132ページ参照
また、仏典の空即是色などの空の解釈に老荘思想の無がひっついて仏教の浄土教、禅宗が栄えたと解説している。
そこで思うのは、プラトンはじめのギリシアでも魂の超越性、永遠性は信じられていたからパレーシアすることも中国に比べると敷居は高くなかったのかもしれない。目上に刃向かい正しいことを言って処分されても天上界では報われる、と。それでもソクラテスのように毒杯を飲んで死ぬのは嫌だと思うが。
パレーシアの評定の一つは、考えていることと話すことの一致、行動も一致。逆にソフィストは言葉で言いくるめたり論破するための策なので考えていることと話すことは一致しない、というのがある。
このようなパレーシアが保証されるには、結局のところ魂や心の永遠性が担保されないと、司馬遷が白夷伝一篇の結論を書き換えて司馬遷自らを鼓舞させるようになりかねない。上記文庫本197ページ以降参照 司馬遷のパレーシアはより過酷なのではないか。
結論は飛んでしまうが、以前レポートしたように聖書ではパレーシアは信仰を確信するという言葉として超越した言葉になって出てくるのも納得できる。パレーシアという言葉に触れての漢文の世界との共通性を何から考えようか、というモヤモヤがすこし解消されました。また別ネタで掘り下げていきます。