前回は序論 ー禁欲・自己放棄・沈黙ーの列記でした。
上記で禁欲・自己放棄・沈黙についてアベラールの冒頭を確認しました。今回から本論です。
アベラールが掲げる修道の核心である3点の禁欲・放棄・沈黙について評定すべき修道院規則の確認、そして今回はそのうち一つ目の禁欲(Continentia 節制・禁欲)について検討しよう。
アベラールの主張を確認
前回、節制・禁欲はルカ伝12の35の腰に帯を引用していた。アベラールは下記のように続ける:
引用されているコリント・マタイを確認
(今回はギリシア語は本題には関係無さそうなので末尾の資料編に送り、ギリシア語からのChatGPT訳)
コリント前書7:34
アベラールの引用部分と並べてみよう。
聖書では、未婚もしくは処女となっているところ,アベラールの場合はestを追加することで未婚でかつ処女に限定しているように見える。未婚だが処女ではないもの(売春婦、罪を犯したもの、レイプされた女性?)は排除されている。
マタイ25:9-12
Domine, domine, aperi nobis. (聖書)→« Domine, Domine, aperi nobis, » (アベラール)
Amen dico vobis, nescio vos. (聖書)→« amen dico vobis, nescio vos. »(アベラール)
引用は再現されている。
もう一つのポイントはアベラールはマタイ25:12のニュアンスとして「花婿自身が恐ろしい声で応えて言います」としているが聖書自身にはそのようなニュアンスは書かれていない。神への畏れが念頭にあるためであろう。
この節で言いたかったことは、一つ目の例えは、アベラールと結婚はしたがお互いに修道院に入っているので、アベラールではなく神に「心」を「捧げ」なさい、という確認。
二つ目は、女性修道院向けであるので、修道院の女性全体に対し、禁欲した処女を例にメシア到来の準備や復活の準備ができていない戒め、により準備を促すものだろうか。当時は最後の審判や復活はもう、まもなく、と考えられていたのだから。
しかしながら、この例えは根拠があるのか適切なのかよくわからない。次回は節制・禁欲について修道院文書で確認し、フーコーを手掛かりに節制や禁欲の系譜について切り込んでみよう。
資料 聖書
執筆後記
アベラールとエロイーズの第8書簡を見ていきます。節制・禁欲については今回と次回の2回で終わります。ちょっと肥大化していますが、出典を明記したいので引用を「」で囲ったり、わかりやすさよりも、過去のさまざまな議論の提示をして知識のアルシーブを作って自分の思考を後からも追跡できるようにしています。その蓄積でロマネスク美術を違った視点から眺めることができるようになり、自分の活動を通じて「自分自身が『気に入る』」(性の歴史3巻pp88)ことができました。
トップ画像はサンジールデュガールの南側タンパン直下のフリーズ。キリスト復活の朝の二つのエピソード『香油を買う聖女達』『聖墳墓を訪れる聖女達』のうち前者です。アベラールのキリストに捧げなさい、というのに合わせました。