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中世のカトリック修道院でワインと魚・肉料理で豪勢だった件は古代ギリシアテキストに基づいていたのかも

かなり以前、別サイトで別名義で下記の記事を書きました。要点はこのリンクの下にまとめますが、中世のカトリック修道院では豪勢に料理を食べていたらしく聖ベルナールやアベラールもコメントを残している。そのドキュメントを読むと、清貧という概念はベルナール自身のシトー会やフランチェスコ会などではじまるが、すでに自己放棄の概念はあり全てを捨てながら豪奢な料理を平らげる彼らは一体どうしたことであろう?と思っていた。

さて、 クレルヴォーの聖ベルナールの「ギョームへの弁明」(中世思想原典集成10巻 杉崎泰一郎 訳p455〜)あたりを読めば明らかなように肉料理、魚料理、ワインが王侯貴族のように出てくる。

「次々と料理が運ばれてくる。ただ肉料理だけは除外されているが、その代わりに二倍の量の大きなが出される。 (中略)  念入りに、みごとな腕前で調理されているので、四皿や五皿を平らげても、次の料理に嫌気がさすことはなく、食欲は失せることはない。口が香料の効いた味に慣れると、・・・」
「目は色で、口は味で刺激されるが、色に惹かれることも味を愛でることもない哀れな胃は圧迫されて、元気が出るどころか苦しむのである。 」
「病気のときは大量の水を貪りあおるよりは、ほどよい量の葡萄酒を飲むほうが良い。パウロもテモテに少量の葡萄酒を飲むことを勧めているし[一テモ五:二三]、主自身も酒飲みと言われつつも葡萄酒を飲んでいる〔マター:一九]。主は使徒に葡萄酒を飲むべく与えているし、血の秘跡を葡萄酒に定めた。」
「いまや誰も葡萄酒に水を混ぜて飲まない時代に、水を飲むことをどのようにして勧められようか。」
「あなたはたった一回の食事に半分ほど葡萄酒の入った杯が三、四種類出されているのを見かけるだろう。そしてあなたはさまざまな葡萄酒を飲むというよりも香りを堪能し、すするというより舌で味わい、鋭敏な感覚とすばやい認識で多くの葡萄酒のなかから最も強い一種類の葡萄酒を選ぶようになる。」
「大祝日に多くの修道院では蜂蜜を混ぜたり香料の粉末がふりかけられた葡萄酒を飲む慣習が見られるのは」
「飲んだ後血管は弾けんばかりに、頭は割れんばかり」になり、になって、修道士は「この哀れな状態で暁課のために起きるよう強いるなら、修道士からは歌声ではなく嘆き声」になるといいます。
「私はやっとのことで寝台に辿り着いたときには、酩酊した罪悪感よりも、もう二度と食べることができないほどの苦痛」

一方、アベラールは

「天使たちはアブラハムが供えた肉を食べたし(創世記一八の一以下)、主イエスは荒地で見出された魚で多くの飢えた民衆を元気づけ給うた(マタイ伝一四の一三以下その他)。これから明かに分るのは、肉と魚の使用はもともとどっちも非難さるべきでないということ。」(岩波文庫p319)
「本性が必然的に要求する食物を採るべきであって、欲望が我々にささやく食物を採るべきではない。だがあまり高貴でないもの・豊富にあるもの・安く買われるものにたいしては我々の欲望は比較的大きくない。このことは普通の肉の場合に見られる。普通の肉は魚肉とくらべて、弱い身体を養うのに一層有効でありながら、比較的安価で、容易に求められる。」(p320〜321)
「それに普通の肉の使用は、魚肉や鳥肉のそれよりも魅力が少い。聖ベネディクトはしかし、これら魚肉や鳥肉をも我々に決して禁じていないのである。
 使徒もまた肉の色々な種類を区別して、「凡ての肉同じ肉にあらず、人の肉あり、獣の肉あり、鳥の肉あり、魚の肉ありて各“相異れり」(コリント前書一五の三九) と言っている。 」(p322)
「その上魚は普通の肉ほど豊富でないし、効力においても劣るから、貧しい者にとってはそれだけ厄介であり、高くもつく。要するに魚肉は一面において値が高く、一面において滋養になることも少い。」(p322)
「実際、誰しもが知っているように、当世の聖職者や修道士は酒倉にいたく関心を持ち、これをあらゆる種類の酒で満たそうとしている。草や蜂蜜やその他の成分をまぜ合せて香味を増そうとしている。そしておいしい酒を飲んで一層容易に酔おうとし、また酒にしたたか焼かれて一層情欲へ自らを駆ろうとしている。」
「酒を見たり味わったりして楽しむために、これに蜂蜜や草やその他種々の成分の香味をまぜ、これを大杯から飲もうとする我々は、これにたいして何と言うべきであろうか。」

アベラールとエロイーズ 岩波文庫 畠中訳

とこのような争いを修道院で繰り広げる前になぜこうなった?と思っていました。
今日、フーコーの性の歴史3巻のまとめを作成していたら、第4章の「身体」p138にこのような表現を見つけました。アテナイオス(紀元200年ごろの人)の提案だそうである。

「飲物は蜂蜜酒、蜜の入ったぶどう酒、古くて香気のある白ぶどう酒、一般的には、湿気をすっかり呼ぶ力のある物質であること。だが、飲酒の量は減らすこと。乾いた食品は消化しやすいし、よく発酵し、よく煮えて、清らかであろうし、茴香やアミ〔セリ科の植物〕を混ぜ合わせること。野菜については、キャベツ、アスパラガス、にらねぎ、ゆでた柔らかい玉ねぎ、ゆでたわさび大根を食べ、については、体内に容易に行きわたる岩礁魚を、肉については、家禽と、他の種類のうちでは、子山羊と子豚を、ソースについては、胡椒やマスタードやロケットサラダや沈丁花や酢を材料として調理したものを食すること。

 いかがでしょうか、ワインには蜂蜜や香草をいれ、魚も肉も食べなさい、ソースもちゃんと作って味付けしなさい。ベルナールやアベラールが批判していたことそのままに出ています。
 ただし、ベルナールやアベラールでは、出典としてアテナイオスというのは言われてなくて聖書からの引用が根拠とされています。
 そこでちょっとフーコーのフランス語オリジナル版の同じ箇所を味わってみよう。フーコーも
1. ATHÉNÉE, in ORIBASE, Livres incertains, XXIII; t. III, p. 182 sq.rummの(オリバシウス(wikiによると320-403年)中、ビュスケマールとダランベールのフランス語版)引用とのことである。

Quant à l'alimentation, on choisira celle qui « peut échauffer les parties du corps et dissoudre les liquides figés et épaissis par le froid. Les boissons consisteront en hydromel, en vin miellé, en vin blanc, vieux et odoriférant, en général en substances capables d'attirer toute l'humidité; mais on diminuera la quantité de boisson; l'aliment sec sera facile à élaborer, bien fermenté, bien cuit, pur, et sera mélangé de fenouil et d'ammi. On prendra, en fait d'herbes potagères, du chou, des asperges, des poireaux, de l'oignon tendre bouilli et du raifort bouilli; en fait de poissons, des poissons de roche, qui se distribuent facilement dans le corps; en fait de viandes, des volailles et parmi les autres espèces, du chevreau et du jeune porc; en fait de sauces, celles qu'on prépare avec du poivre, de la moutarde, de la roquette, du garon et du vinaigre. On abordera les exercices assez violents, la rétention du souffle, les frictions assez vigoureuses et surtout celles qu'on se fait à soi-même près du feu. Il est bon aussi de recourir au bain chaud, qu'on le prenne dans la piscine ou dans une petite baignoire, etc.¹ ».
ChatGPT
 食事に関しては、「身体の部位を温め、冷えによって固まった液体を溶かすことができるもの」を選ぶようにします。飲み物は蜂蜜酒、蜂蜜入りワイン、芳香がある熟成された白ワインなど、体内の湿気を引き寄せるものが良いとされますが、飲む量は減らすべきです。乾燥した食品は消化しやすく、よく発酵されていて、十分に火が通り、純粋で、フェンネルやアミを混ぜたものが理想的です。野菜としては、キャベツ、アスパラガス、リーキ、やわらかく茹でた玉ねぎや西洋わさびを食べると良いでしょう。魚は、体内で消化されやすい岩礁魚を、肉では鶏肉や子ヤギ、若い豚肉などを選びます。ソースには、胡椒、マスタード、ルッコラ、魚醤、酢で作るものが適しています。
 また、激しめの運動や息を止める練習、強めのマッサージ、特に火のそばで自分自身で行うマッサージを行うのが良いとされています。さらに温かい湯船や小さなバスタブでの入浴もおすすめです。

このオリジナルのギリシア語の表現を探そうと思ったのだが、フーコーはオリヴァシウス(オリバシウス)の中のアテナイオスの引用としていて、ではアテナイオスの元の表現はあるのか気になる。そこで冬を古代ギリシア語にして活用のなさそうな短い語にして検索した、<https://www.digitalathenaeus.org/tools/KaibelText/index.php>10巻35段落にこのような表現が出てきた

ταῦτʼ εἰπὼν ὁ Δημόκριτος καὶ πιὼν ἔφη· τούτοις εἴ τις ἀντιλέγειν ἔχει, παρίτω. ἀκούσεται γὰρ κατὰ τὸν Εὔηνον· σοὶ μὲν ταῦτα δοκοῦντʼ ἔστω, ἐμοὶ δὲ τάδε. ἐγὼ δʼ ἐπεὶ παρεξέβην περὶ τῶν ἀρχαίων κράσεων διαλεγόμενος, ἐπαναλήψομαι τὸν λόγον τὰ ὑπὸ Ἀλκαίου τοῦ μελοποιοῦ λεχθέντα ἐπὶ νοῦν βαλλόμενος· φησὶ γάρ που οὗτος· ἔγχεε κέρναις ἕνα καὶ δύο. ἐν τούτοις γάρ τινες οὐ τὴν κρᾶσιν οἴονται λέγειν αὐτόν, ἀλλὰ σωφρονικὸν ὄντα καθʼ ἕνα κύαθον ἄκρατον πίνειν καὶ πάλιν κατὰ δύο. τοῦτο δὲ ὁ Ποντικὸς Χαμαιλέων ἐκδέδεκται τῆς Ἀλκαίου φιλοινίας ἀπείρως ἔχων. κατὰ γὰρ πᾶσαν ὥραν καὶ πᾶσαν περίστασιν πίνων ὁ ποιητὴς οὗτος εὑρίσκεται· χειμῶνος μὲν ἐν τούτοις· ὕει μὲν ὁ Ζεύς, ἐκ δʼ ὀρανῶ μέγας χειμών, πεπάγασιν δʼ ὑδάτων ῥοαί .... κάββαλλε τὸν χειμῶνʼ, ἐπὶ μὲν τιθεὶς πῦρ, ἐν δὲ κέρναις οἶνον ἀφειδέως μελιχρόν, αὐτὰρ ἀμφὶ κόρσᾳ μαλθακὸν ἀμφι .... γνόφαλλον. θέρους δέ· τέγγε πνεύμονας οἴνῳ· τὸ γὰρ ἄστρον περιτέλλεται· ἁ δʼ ὥρα χαλεπά, πάντα δὲ δίψαισʼ ὑπὸ καύματος. τοῦ δʼ ἔαρος· ἦρος ἀνθεμόεντος ἐπάιον ἐρχομένοιο. καὶ προελθών· ἐν δὲ κέρνατε τῶ μελιαδέος ὅττι τάχιστα κρατῆρα. ἐν δὲ τοῖς συμπτώμασιν· οὐ χρὴ κακοῖσι θυμὸν ἐπιτρέπην. προκόψομεν γὰρ οὐδὲν ἀσάμενοι, ὦ Βυκχί· φάρμακον δʼ ἄριστον οἶνον ἐνεικαμένοις μεθύσθην. ἐν δὲ ταῖς εὐφρόναις· νῦν χρὴ μεθύσθην καί τινα πρὸς βίαν πώνην, ἐπειδὴ κάτθανε Μυρσίλος. καὶ καθόλου δὲ συμβουλεύων φησίν· μηδὲν ἄλλο φυτεύσῃς πρότερον δένδριον ἀμπέλω. πῶς οὖν ἔμελλεν ὁ ἐπὶ τοσοῦτον φιλοπότης νηφάλιος εἶναι καὶ καθʼ ἕνα καὶ δύο κυάθους πίνειν; αὐτὸ γοῦν τὸ ποιημάτιον, φησὶ Σέλευκος, ἀντιμαρτυρεῖ τοῖς οὕτως ἐκδεχομένοις. φησὶ γάρ· πίνωμεν· τί τὰ λύχνʼ ὀμμένομεν; δάκτυλος ἁμέρα. κὰδ δʼ ἄειρε κυλίχναις μεγάλαις αιταποικιλα· οἶνον γὰρ Σεμέλας καὶ Διὸς υἱὸς λαθικαδέα ἀνθρώποισιν ἔδωκʼ. ἔγχεε κέρναις ἕνα καὶ δύο πλέαις κὰκ κεφαλᾶς· ἁ δʼ ἁτέρα τὰν ἁτέραν κύλιξ ὠθήτω, ἕνα πρὸς δύο ῥητῶς κιρνάναι κελεύων.

ChatGPT
「これらのことを言った後、デモクリトスは言った。もし誰かが反論するなら、どうぞ出てきてください。エウエノスに従って聞かれるでしょう。あなたにはこう思われるかもしれませんが、私にはこれがあります。私が古い混合物について議論していたとき、アルカイオスの言葉に戻ります。彼はどこかでこう言っています:一杯または二杯を注ぎなさい。実際のところ、彼のことを言っているのは、混合物ではなく、慎ましく一杯の無割りの酒を飲み、再び二杯を飲むということです。これをポンティコスのカマイレオスは、アルカイオスの酒の哲学を無限に持っています。彼はあらゆる時期と状況において酒を飲むとされています。冬の間には:ゼウスが雨を降らせ、大きな冬が天から降りて、流れる水が凍りつく……冬を捨て、火を置き、無制限に甘いワインを注ぎ、柔らかい外套の周りに……入れてください。夏の間には:肺をワインで潤し、星が回っています。時は厳しく、すべてが熱で渇望します。春には:花が咲く春がやってきます。進んで、蜜を注ぎなさい、できるだけ早く壺を満たすのです。そして、調子を合わせて、悪者に心を許してはいけません。私たちは何も進展せず、オブキュに。最高の薬としてワインを飲むことを。楽しいひとときには、今、酔いしれて、暴力的な仕事に何かを与えなさい。なぜなら、ミルシロスが死んだので。全体を通して、助言として彼は言います。最初にブドウの木を植えないでください。さて、どうして、これほどの酒好きが冷静で、たった一杯か二杯を飲むことができたでしょうか?実際、この詩は、そういうふうに受け入れられることに反論しています。彼は言います:さあ飲もう、照明はどうしますか?指が昼間を示します。カドの大きな壺に、セメレのワインを、そしてゼウスの息子が人々に与えました。ひとつ、ふたつを注ぎ、もうひとつはもうひとつに向かって押し出し、一杯と二杯を明確に混ぜることを命じています。」

これはうまくいけば京都大学や岩波文庫で出している本「食卓の賢人たち」に含まれているかもしれない。いずれ探してみよう。
 オリバシウスの原文についてはまだ辿り着いていない。

上記リンクから先に攻められない。

 さて、調査は不完全であるが、ここからわかるのは古代ギリシアの表現はそのままに、キリスト教の聖書からの概念で都合をつけて根拠を与え、結果として同じことをしても意味合いが異なっていっていることがあるということが如実にわかる。これがテキスト解釈の屈折としても、まだ通読し切っていないので評定できていないが「知の考古学」などでも取り上げられている方法論かもしれない。

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