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「一期一会の本に出会う」(15) 稲垣足穂の『彗星問答』
『彗星問答 私の宇宙文学』
note「宮沢賢治の宇宙」(30)で、稲垣足穂の『彗星問答』に言及した。その責任上、この本について少しだけコメントしよう。本に関する話題なので、「宮沢賢治と宇宙」ではなく、「一期一会の本に出会う」で紹介することにしたい。
『彗星問答』(潮出版社、1985年)には「私の宇宙文学」というサブタイトルが付けられている。実のところ、この「宇宙文学」という言葉に惹かれた。私は天文学者なので、職業病が出たのかもしれない。もうひとつ惹かれたことがある。それは、この本の表紙や装丁が美しいことだ(図1)。
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稲垣の著書には『彗星問答』のみならず『天体嗜好症』など、天文関係のものが多い。彼は天文学者ではないが、天文学・宇宙にはかなりの関心を持っていた人だ。『彗星問答』の内容を把握してもらうために、目次を示した(図2)。彗星、星、天文台、宇宙、星座、人工衛星、月、宇宙模型の言葉が並んでいる。最後は「私の宇宙文学」という作品で終わっている。
まさに稲垣足穂の真骨頂。『彗星問答』は稲垣独自の視点で書かれた宇宙にまつわる作品集と言える。稲垣は天体と遊びたかったのだろう。ここでは、主として「天文学者というもの」という作品について話をしよう。
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「天文学者というもの」
では「天文学者というもの」の内容を紹介していこう。この一文は雑誌「文芸世紀」1946年1月号に掲載されたものである。
天文学とは、人気があるような、ないような物のわからぬ物である。 (94頁)
なかなか手厳しい。さらに次の文章が続く
率直にいうならば甚だあいまいな学問である。 (94頁)
「甚だあいまいな学問」といわれるとやや困る。だが、別な見方をすると、この表現の意味を理解できる。それは、天文学がカバーしている分野は広いことだ。
地球などの惑星、太陽のような星、天の川銀河などの銀河、様々な状態にあるガス、銀河を含む宇宙(宇宙論)と多岐にわたる。さらには正体不明のダークマター(暗黒物質)やダークエネルギー(暗黒エネルギー)まである。研究対象が変わると研究手法も変わることが多いので、結構大変だ。また、研究を行うには、天文学のみならず、物理、化学の知識が必要になるし、飛翔体(ロケット)を用いる場合は宇宙工学も必要になる。宇宙人(宇宙生命体)の研究をしたければ、生物学や生命科学も必要だ。つまり、「あいまい」という言葉の意味は「学際的」という意味だと理解すればよい。
では、次の文章はどうか?
残慮な人々を捉えるべく、又よりいっそう残慮なる世間を誤魔かすべく、同時に思慮ある人士の関心を促すべく、又思慮ある階級をおどろかせるべく、これほど格好な題目は他にはない。 (94頁)
天文学は物理学や化学に比べると、マイナーな分野になる。高校の理科では地学の枠組みで教えられる。ところが、地学は受験科目としては人気が異常に低い。地学を開講していない高校もあると聞く。こうなると、高校を卒業した段階で、天文学の知識を体系的に得ることは難しい。そのため、多くの人は天文学に疎いまま、大人になる。何か宇宙関連のニュースが流れても、その意義がわからないケースが多いのではないだろうか。天文学者がその意義を解説しても、興味を持ってもらえる確率は低そうだ。一方、わからないから新鮮に思ってもらえるメリットもある。このあたりが「世間の天文学を見る目」なのかどうかはわからない。稲垣流に解釈すると、先に紹介した文章のようになると理解した。
「天文学科」は超難関!
この後、もっと面白い意見が出てくる。
こんなことを云うと叱られるかも知れないが、天文学者というものは極めて数が少ないから、志望者の多い方面はあきらめねばならぬ学生が、これに志すということも有り得るのではないか。 (94頁)
「天文学者というものは極めて数が少ないから」この文章は正しい。現在、日本国内にいる天文学者(大学や研究機関に勤務している常勤職)の人数は1000名に満たない。物理学者や化学者は一万人を超えるので、天文学者の数は確かに少ない。
しかし、次の文章は正しくない。
「志望者の多い方面はあきらめねばならぬ学生が、これに志すということも有り得るのではないか。」 (94頁)
意外に思われるかも知れないが、天文学者という商売は結構人気がある。宇宙に関心を持っている人はそれなりにいる。確かに天文学を学びたい学生の絶対数は少ないが、そもそも天文学を学べる大学が少ない。そのため、実質的には「超」の付く狭き門なのだ。
まず、天文学科の学生受け入れ人数が非常に少ない。例えば、物理系で定員が100名だとしよう。3年次になると進路の振り分けが行われる。そのときの定員は物理学科80名、地球物理学科15名、そして天文学科が5名ぐらいの割合になる。天文は人気が高く、50名ぐらいが希望する。つまり、3年次の進路の振り分けにおける天文学科の競争倍率はなんと10倍にもなるのだ。大学入試の際の理学部の競争倍率は2倍から3倍だが、理学部に入学できても、天文学科に入るにはそれ以上の高い倍率の競争があるのだ。志望者の多い学科(3年次の進路の振り分けでは低倍率の物理)を諦めて、天文学科に行く人はほぼいない。事実はまったく逆で、天文学科を諦めなければならない人の方が多いのだ。ということで稲垣の考えは正しくない。
なお、状況は少し改善しつつあることを申し添えておこう。昔は、東大、京大、東北大の三つの大学の理学部に天文学科(京大は宇宙物理学科)があるだけだった。現在では専門分野に制限はあるものの、北大、茨城大、千葉大、信州大、名大、広島大、愛媛大、九州大、鹿児島大などで天文学を学ぶことができるようになっている。
研究はやはり難しい
今度は稲垣の科学研究に対する楽観的な意見が出てくる。
目立った失策でもないかぎり、五年十年と辛抱してゆくほどには、親きょうだいが安堵するぐらいの名は売れる。 (94頁)
まず、こういうことはないと思った方がよい。研究者になるには大学の学部卒業ではダメだ。大学院に入学し、修士、博士課程を卒業して博士号を取得することが必須になる。順調に行って、修士二年、博士三年、合計で五年はかかる。
研究者として評価されるには専門誌に論文を出版しなければならない。博士論文の内容が専門誌で出版されたとしても、それだけで名が売れる確率は極めて低い。さらに、学会や国際研究会で口頭発表して名を売ることも必要だ。
それでも、就職難が待っている。今どき、博士号を取得して、すぐに大学の常勤職にありつけることはほぼない。まずは、有期雇用(三年から五年)の非常勤研究員(博士、ドクターを終えた後の研究員なので、ポスドク研究員と呼ばれる。ポスドクはポスト・ドクターの略。)の職を得て、キャリアを積まなければならない。親きょうだいが安堵する日が来ない人の割合は9割ぐらいだ。
研究と云ったところで、或る仮定を立てて材料を整理して、順送りに表を作ってみる。機嫌のよいときに、それらをポツリポツリ見てたなら、馬鹿でない限り何事かは纏まった考えが湧いてくるであろう。 (94頁)
これができるなら苦労はない。また、「ポツリポツリ見てたなら、馬鹿でない限り何事かは纏まった考えが湧いてくる」ということはない。歯を食いしばって考え抜き、100のアイデアを思いついたとしても、ものになるのは三つぐらいだ。
さっき言ったように、博士号を取得した9割の人は常勤職にはなれない。稲垣の定義によれば、9割の博士は馬鹿ということになる。
(研究が)さして感心されないたぐいであったとしても、世間に取ってはチンプンカンプン。何しろ論戦を交わしている双方ともに偉い学者だと思い込んでいるから、まず心配は要らない。 (94頁)
やはり、9割の博士は馬鹿ということでよいようだ。いや、ほぼ10割か??? 稲垣は天文学には関心があるが、天文学者には関心がない。こう結論しておこう。
フッカー望遠鏡は、なぜかフーコー望遠鏡に
ところで、ひとつ気になる文章を見つけた。
実業家のフーコーが気前よく投げ出した金で造った百吋鏡が動いて、吾々の銀河系を一千億箇の中の一個にしてしまった所以だし・・・ (94頁)
これは米国のウイルソン山天文台に建設されたフッカー望遠鏡のことを述べている(図3)。1917年に運用を開始した口径2.5メートルの反射望遠鏡で、当時、世界最大の高性能望遠鏡だった。米国の天文学者エドウイン・ハッブル(1889-1953)はこの望遠鏡を駆使して、銀河の研究や宇宙の膨張を発見した。米国の実業家の名前はフーコーではなくジョン・D・フッカーだ。
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稲垣の誤解か、あるいはわざと違う名前にしたのか不明だ。実は、ここで紹介した文章と似たものが「僕のユーリカ」(『天体嗜好症』稲垣足穂、河出文庫、2017年、308頁)に出てくる。
フーカの寄附した大反射鏡・・・
ここではフーコーではなく、フーカになっている。フッカーは Hookerと書くが、稲垣はこれをフーカと読んだのだろう。フーコーよりはよいが。
しかし、知っている人から見れば、明らかな誤りであることはすぐわかる。問題は、知らない人はフーコー(あるいはフーカ)だと思ってしまうことだ。できればこのようなことはして欲しくない。稲垣の作品には外国人の名前がたくさん出てくる。ピンと来る人もいれば、来ない人もいる。これでは、読み疲れしてしまう人が出るだろう。
稲垣の流儀
稲垣の流儀
個人の感想だが、稲垣の作品は読んでもよくわからないものが多い。作品の分野もよくわからない。SF、サイエンスフィクションなのか、サイエンスファンタジーなのか? サイエンスジョークに近いものもある。この場合、SFではなくSJか? また、よく言われるように、モダニズム詩、あるいは前衛詩なのか?
私が好きな稲垣の作品は「秋五話」の中のひとつ、「杜甫が夜中に忍び足をきいた話」だ。
杜甫が夜おそく青い灯の下で本をよんでゐると、表をバサバサと忍び足でいくものがあるのでどなった。
「どこへそんなに急ぐのだ」
すると答へがした。
「冬へだ」
それで忍び足のものが秋であることに杜甫は気がついた。 (『稲垣足穂詩文集』稲垣足穂、講談社文芸文庫、2020年、61頁)
なぜ、杜甫が出てくるのかは、私にはわからないのだが。