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「宮沢賢治の宇宙」(50) 「天気輪の柱」を探して盛岡へ ― 番外編 金沢で『津軽』
「天気輪の柱」を探して盛岡へ
『銀河鉄道の夜』に出てくる「天気輪の柱」のモチーフになったと考えられるものが盛岡にある。清養院だというお寺には「お天気柱」と呼ばれていた「後生塔」がある(図1)。
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「後生塔」は津軽にもある
清養院の「後生塔」については萩原昌好による詳しい解説がある(「天気輪の柱―小沢俊郎氏の説を承けて」萩原昌好『宮沢賢治』1 創刊号、洋々社、1981年、59-71頁;図2)。
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この解説を読んでいたら、太宰治が清養院の「後生塔」と似たような柱のことを書いているという話が出ていた。太宰の『思ひ出』という文章らしい。この作品は残念ながら知らなかった。
金沢に出かけるとき、書斎の本棚を見たら太宰治の『津軽』があった(図3)。
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目次を見ると、次のようになっていた。
序編
本編
一 巡礼
二 蟹田
三 外ヶ浜
四 津軽平野
五 西海岸
ここに『思ひ出』はない。この本に出ているのだろうか? よくわからなかったが、とりあえず『津軽』をカバンの中に入れて金沢に出かけた。
金沢で『津軽』を読むのもオツなもんだ。ホテルに落ち着いてから『津軽』を読み始めた。すると、次の文章を見つけた(208頁)。
そのお寺の裏は小高い墓地になっていて、山吹かなにかの生垣に沿うてたくさんの卒堵婆(そとば、一般には卒塔婆と書く)が林のように立っていた。卒堵婆には、満月ほどの大きさで車のような黒い鉄の輪のついているのがあって、その輪をからから廻して、やがて、そのまま止ってじっと動かないならその廻した人は極楽へ行き、一旦とまりそうになってから、またからんと逆に廻れば地獄へ落ちると、たけは言った。 (註:「たけ」は太宰の養育にあたった越野タケ [1898-1983]のこと)
お天気占いではないが、清養院の「後生塔」と似たような柱である。東北地方の北の方では、この種の塔がお寺にあったということだ。子供時代に、この種の塔で占いごっこ(?)を経験すると、ずっと記憶に残ることだろう。
ところで、太宰は卒堵婆と書いているが、卒堵婆(そとば、一般には卒塔婆)は、故人を偲んで、お墓の後ろに立てる縦長の板のことだ。何か、勘違いをしたのだろう。
また、鉄の輪の大きさを「満月」ぐらいと言っていることには驚いた。月の著系は約3500kmもある。見かけの角直径は約0.5°。どちらの大きさを取っても、目の前にある鉄の輪のサイズを表現するのに、月を持ち出すのは変だ。おそらくは、鉄の輪の見かけの大きさ(角直径)が満月の大きさと同じように見えたのかもしれない。それにしても、すごい表現で面白い。これが太宰の優れたセンスなのか。
兼六園でひと休み
賢治も清養院の「後生塔」の鉄の輪をぐるぐる廻して遊んだはずだ。清養院の「後生塔」は「お天気柱」とも呼ばれていたそうだから、「天気輪の柱」の語源になった可能性はある。
そんなことを考えながら、兼六園を散歩した(図4、図5)。良い春の一日になった。30℃近い気温があり、春というよりは夏の一日ではあったが。
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