「ノンちゃん雲に乗る」を読んで惨めでいいやと思う
子供の頃、本を読むのがすきでした。
特に、理不尽な境遇から幸せをつかもうとする冒険物語が好きで、巌窟王・レミゼラブル・小公女・秘密の花園・果てしない物語・モモなどを、繰り返し読んでいました。
その中の一冊に、「ノンちゃん雲に乗る」と言う本があります。
ネタバレしていきますので読みたい人・これから読もうと思っていた人がいましたら、理不尽な境遇を「よかった」ということに切り替えて強く生きる少女の代表、ポリアンナ物語の記事でも読んでいただけたらと思います。
※※以下ネタバレ※※
「ノンちゃん雲に乗る」は小学校低学年~中学年向けののんびりしたお話です。戦前ののどかな東京に生れたノンちゃんが、病気を患い田舎へ越した先の弁天池がお話の舞台です。
8歳のノンちゃんが朝起きると、大好きなお母さんとお兄ちゃんがいません。なんと、ノンちゃんに黙って東京へ出かけてしまったのでした。ノンちゃんに内緒で、と言うことがショックで悲しくて、どんなにお父さんがなだめてくれても泣き止むことができません。泣きながら弁天池に行き、そばにあった木に登って心を落ち着かせていました・・水面に映る雲がきれいで、乗れたら心地よさそうだなあ・・と思ったとき、ノンちゃんは池に落ちてしまいます!
気がつくとタイトル通り、ノンちゃんは雲に乗っていたのです。正しく言うと、雲の運転手の優しそうなおじいさんが熊手で、雲に引っ張り上げてくれたのです。なんと雲にはたくさんの人が乗っているようです。ふわふわと霞んでよく見えないのですが。
おじいさんの言うには、この雲には悲しいこと、やるせないことが起こった人たちが乗っているのだそう。おじいさんは彼らのお話を聞いてあげていて、今はちょうど別の子供の話を聞いていたところでした。でも、どうやらノンちゃんの話の方が面白そうだから聞かせておくれよ・・
ということになって、ノンちゃんの半生記を語りはじめることがこの本の主題になります。ノンちゃんは大変優秀な女の子で、この春からは級長に選ばれたほどでした。勉強も運動もできて、お母さんの言うこともよく聞きます。なんでもできるんです、と得意になっておじいさんにお話しします。ところがおじいさんは難しい顔をして、「それはよくないな」というのです。ノンちゃんは、納得がいきません。
「そもそも何故あんなに弁天池で泣いていたのか話してごらん」と言われて、今度はお兄ちゃんのことを話し出します。お兄ちゃんはとても乱暴で、お母さんの言いつけを守らず、悪いことばかりしています。犬と一緒に駆け回って、お母さんのお裁縫を汚してしまったこともありました。歌の歌詞も間違って覚えていたのをノンちゃんが治してあげました。そんなお兄ちゃんと、お母さんが、ノンちゃんに内緒で東京へでかけてしまった。ちゃんと話してくれたら、きっと我慢してお留守番ができたのに・・!
おじいさんはますます渋い顔をして、「よくできる子というのは、危険だ。ひれ伏す心を忘れるな」といいます。そして、今度はおじいさんが、お兄ちゃんの気持になってお話をするのです。
・・よくできた妹が居ると、どんなにやりづらいかと言うことを。好きで言いつけを守らず、好きでお母さんのお仕事を邪魔しているわけでは無く、どうしてもそうなってしまうのだと言うことを。今日こそ宿題をやろうと思う。でも、そんな日に限ってノンちゃんがお父さんに甘えたりしている。それを見たら黙って一人で暗い二階へ行く気になんてなれない・・
病気になったノンちゃんの為に、家族で引っ越してきた。お兄ちゃんは、学校の友達も東京に置いてきて寂しい思いをしていた。友達にあいたかっただろう。妹を連れていって、また病気をもらってきても大変だろう。
「おまえ、兄ちゃんの気持になってみることはできぬか?」とおじいさんが優しく諭します。ノンちゃんは急にお兄ちゃんに会いたくなって、もう帰りたいと言います。するとおじいさんが言います。
「帰してやってもよいが、試験が必要だ。おまえの場合は、そうだな、ひとつ嘘をついてもらおう」
ノンちゃんは、試験ならなんだってできると得意になっていましたが、びっくりしてしまいます。だって嘘なんか、つけないからです。どう頑張っても、嘘がつけないのです。涙を流して、できないと言います。
「簡単なことだろう。ひとつでいいんじゃ。何故嘘がつけないのじゃ?誰かに、嘘をついてはいけないと言われたのか?」
「ちがうッ!誰も言いやしないッ!私が嫌なんだあッ!!」
ノンちゃんが泣き叫ぶと、ノンちゃんの身体から目のくらむような光が発散して、おじいさんは雲をひっくり返してしまいそうになります。雲になっていた大人たちもびっくりして、ざわざわしています。こんな危ない子、この雲に乗せてはおけない・・早く帰さないといけない・・それで、ノンちゃんは家に帰されることになるのです。
このお話のことを、子供の頃の私は、うらやましく読んでいました。雲の上でやさしいおじいさんに甘える様子を、いいなあと思っていたのです。先日、捜し物をしていたらこの本がでてきたので読み返しました。すると当時とは全く違う感想を持ちました。もう1ヶ月ほど前のことなのに、ノンちゃんの「誰も言いやしない、自分が嫌なんだ」と言うシーンが頭から離れません。
自分が優秀であると思うほど、人に対してかがむことができないと言うこと。何故優秀な人間で在るべきだと思っているのかということ。どんなに優しい家族に囲まれても、心に寂しさを抱えて大きくなるのは何故だろうかと言うことをずっと考えていました。
ここから私の考えたことです。
私は、惨めな子供時代だったと思います。
いつも怒鳴られて、身なりは汚く、臭くなった服を着てぼさぼさの頭のまま、手にはいつもあかぎれができていました。虫歯だらけで、がりがりで、笑うことなんかありませんでした。
そういう自分を取り消したくて、大きくなってから必死で勉強をしました。惨めなままの大人になりたくはないと思ったからです。中学校には行けず、独学で高校へ入学しました。それから奨学金で大学に行きました。そしてアルバイトでなんとか暮らせていました。そしてそのつもり無くではあるけれど、就職をして、普通の生活にたどり着きました。いつでも頭にあったのは、「だから私はあいつらよりはましだ」という気持でした。
あいつらとは誰かと言えば、自分を生んだ親であり、会ったことも無い世界中の人たちのことです。
惨めな自分を認めたら生きていけないと思っていました。愛情をもらえなかった私のことは、隠さなければいけないと思って生きてきました。認めることは敗北を意味するからです。
自死する勇気も持てなかった私は、敗北を選ぶこともできず、世間に勝ち続けるしか無かったのです。
病気をしても、人に言えませんでした。
どんなに痛くても辛くても、それが人にバレれば負けてしまうと思いました。
あんな惨めな場所に居ることを、認めてはならない。
それが私の思う「ここにいてはいけない」という感情の原点かもしれません。
海や草原や木の下や、川のそばや空がよく見える場所にいると、体に当たる風と草木や風のにおい、虫や鳥や川の音に耳を傾けているだけの時間に触れることができます。とても心地よくて、自分の体の存在を忘れそうになります。そういうとき、負けるとか惨めだということは関係がなくなります。もっと正しく言うと、負けだとか惨めだとかいうことが消えて無くなるわけでは無くて、「惨めであったことは事実だが、そんなことはこの心地よさに関係がない」という感覚です。それが「ここにいていい」という感覚なような気がしています。
そういう感覚になれたことが、人生で4度、あります。
たった4度だけ、です。
そのひとつが、前回書いた、青春18きっぷでたまたまたどり着いた駅の待合室での体験でした。
それ以外はいつでも、「ここにいていいと思っているのか」つまり「惨めであるな・惨めだとバレるな」の声が弱まるか強まるかでしかありません。これらの禁止事項が、常に私を追いかけてきている感覚です。私はその感覚に追い立てられて、ここまでやってきました。おかげで、経済的な不安が無く暮らせるようにはなりました。だけど、もう疲れてしまいました。惨めであることを認めてもいいから休みたいと思いました。そうすると、惨めであってもなにも変わらないのでは無いか、と思い至りました。
惨めであってはならないと、誰も、言いやしない。
惨めが嫌なのは、私だからです。
大学の時に読んだ旧聖書に、コヘレトの言葉というのがありました。
結局それが全てだと、思うことが多くなりました。
この聖書に書かれる本当の意味は、私の解釈とは異なるものかもしれませんが、私たちはどうせ、惨めに苦しんで生きることしかできない。だから笑える時は笑っておけばいい。そんなふうに読み、そんなふうに生きたいとおもうのです。そもそも惨めだなんて、主観でしかないからです…。
ノンちゃん雲に乗るの著者、石井桃子さんは、くまのプーさんの翻訳者として有名な方です。この本には他にも長吉っつぁんというキャラクターや、なかなか立派なお父さんが出てきます。さらに最後に驚くカラクリも残されていて、児童向けに描かれてはいるけれど綿密に練られた壮大なSFだと感じています。3世代に渡って読み伝える家庭も多いでしょう。1951年に出版された本だからです。気になった方はぜひ読んでみてください。
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