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優しくすることと傷つけること

「自分にまず優しくしたい」と言ったら「でもまずは人に優しくすることからだよね」っていわれたことに
とても傷ついていて、1ヶ月も前のことなのに思い出して悲しくなる
でもその人は私を傷つけるつもりがなかった。その人なりの生きてきた哲学を語ってくれただけだ。だから「ほんとにそうですよね!」と返した。相手は「まず人に優しくしてこそ優しさが返ってくるものですよね!」と続けた


その人はずっと人に優しくされる暮らししかしてこなかったんだと思うし、優しくすれば優しく返してもらえる経験しかしてこなかったのだ。多くの人がそうだと思う。私が異端なのだ、だからわかってもらおうとは思わない

ひとが輪を作って暮らしているとしたら皆は内側の輪にいて、私は外側の輪にいる。皆が中心を向いているから、彼らは外側に違う人種がいることなんか想像もしないで、彼らのルールや彼らの前提で暮らしている。外側の私たちはずーっと内側を見ているから(嫌でも見えるから)彼らのパターンを知っているけど、針でできた荒地のようなところで踊っているから痛くて笑っていられない。そんな針の荒地で足を血まみれにしていることを内側の彼らは知ることがない


自分を二の次にして我慢に我慢を重ねる暮らししかしてこなかった。そうするしかなかった。それは相手への優しさではなくて自分への攻撃から身を守るための行為だった。でも普通のひとは、ひとに攻撃なんかしないらしい。でも私はそれを信じることができない。攻撃してくるひとしか見てこなかったからだ。だから私にとって、自分に優しくするということはとても勇気がいることでやっと決心がついた重大なことだ。そして、先に相手に優しくすることなどは「もう四十年も散々やってきて、優しさで返されたことなんかない。ずたずたでぼろぼろになっても耐えること」なのだ


だからこそまず「そうですよね!」って笑顔で返している…どうせお互いの「人として生きることの前提」「内側と外側の輪」の差を相手が気がつくことはないのだし、そうやって肯定することが私にとっての「私を守る術」だから
だけどその術が私を傷つけるから、「これからは私に優しくしたい」と思っている

それをうっかり口にしたからこうやって傷ついた


それから、自分は内側の交流の加減がわからない。外側で体験してきた交流の仕方をうっかりだすと、内側のひとはとても傷つくことがある。手探りでびくびくしている。「私がされたら、傷ついた顔なんかしてはならなかったことなのに!笑って肯定するべきことだったのに!」とショックを受ける。「やっぱりしてはいけないことなんだ!」「傷ついていいことなんだ!」「自分がばかだったんだ!」

そして「せっかく現れた優しいひとを傷つけてしまった」ことに絶望して、もう一生外側でいいやと思う。自分に優しくすることなんかやっぱり許されないことなんだと思う


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