寂しいという感情を大切に眺める
18歳の時に大学で出会った先輩と今でも仲が良い。年に5、6回、飲みに行く時は必ず誘ってくれるし、キャンプに行ったりただカラオケに行ったり何かと声をかけてくれる。いちばん、自分のことを見てくれている人だと思う。悪いところを。何度も怒られたけど「もういいよ、長い付き合いだし」と呆れながら飽きずに誘ってくれる。
10年くらい前に「私って学生の頃どんな印象だった?」と聞いたら「寂しがりや」とひとことだけ返された。自分はそのころ、恋人と一緒にいるのが苦痛で当面ひとりでいたいと思っていたので「先輩も私のことわかってないな」と思った。
最近ふと、「さみしいな」と思うことがある。それはわるいことではないと考えている。私はいつか人と暮らせるようになることが目標だから。
一つの部屋の中で人とすごすことを、心地よく感じられるようになりたい。そこに到達するための長い道のりのかなり手前に、「寂しさを育む」があって、そのすごく向こうに「信じる」なんかがあると思う。
まだ若かった時、私はちゃんと寂しがりやだったんじゃないかなと思うのだ。ひとりで生活しなければならないと決めた時から、その感情をどっかにやらないとしんどかったのかもしれない。本当のことほど直視するのが辛いものだと思うから。
あんな幼少期を過ごしていたら、寂しくて当然じゃないか。
だから最近ふと「さびしいな」を思う時、あっ人らしくなれたのかもしれないと思う。この感情はすこし胸を苦しくして涙が出そうになるけど、みないふりをするのはもうやめて、ちゃんと「あっ!今さみしいんだ!」って思ってそれを眺めていたい。
心理学者じゃないから正しいことなのかわからないけど、この時間が私の目標を近づけてくれるような気がするから、しばらくやってみようと思うのです。