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「空」の彼方へ:聖典から考える「空気」の支配からの解放

「伝道の書」(『旧約聖書』第21書)はこう語る。「空の空、すべては空」と。

いつごろからだろうか。この社会では、「空気」がしばしば人間関係や行動を支配する。職場や、学校、そして家庭でさえも。
「空気を読む」ことが求められ、「空気が読めない」と批判されれ、排除の憂き目にあった人も少なくないのではなかろうか。
だが、この「空気」とは一体何だろう? 始まりは、嫉妬や愛憎といった個人的な感情。そうした感情が引き寄せ合うと、それが時として目には見えない集合的な感情や圧力に膨らんで、心理的にあるいは社会的な抑圧にもつながってしまう。
かつては「孤独」だったはずの群衆だが、ここにSNSが人々の新たな日常として絡むと、そのアルゴリズムは「空気」をゲリラ豪雨をもたらすような局所的な積乱雲になり、あるいはいくつかの大陸を跨ぐような巨大な雲となって、停滞する。そこでどちらの雲からも降り続くのが、止めどない石礫のような言葉たちだ。
誹謗中傷、妬み、恨み──それらはネット上で「空気の言葉」として投げつけられ、人々の心を、「空しさ」に沈ませ、ときに破壊さえする。

「伝道の書」はこうも言う。
「人の語るすべての事を心にとめてはならない。他人の呪いを聞かないためだ」(7:21)。
この言葉には重要な洞察がある。呪いとは、他人だけでなく、自分自身にも返ってくるという戒めだ。
「空気」に振り回され、すべての言葉を真に受けてしまえば、結局は自分が作り出した呪いに苦しむことになる。

聖典が指し示す「空」の自由

「空」は、創造主がいく度となくその御言葉の中で引き合いに出し、「空にかけて」大切なことを下している。たとえば新しい創造を行なうのも創造主だと。
かつて「空気を読まずに聖典を読め」と主張した人がいた。だが聖典クルアーンには、《アブー・ラハブの両手は滅び、彼も滅んでしまえ》(棕櫚章1)、悪口を言って中傷する者、凡てに災いあれ》(中傷者章1)など呪いの言葉も下されているが、それは固有の歴史的文脈の中で当時の執拗な迫害者に対して降ろされたもの。普遍性があるのは「戒め」の方。なのに、人間はこれを自分たちの空気で縛って、自分たちが呪いの言葉を発してしまう。
いや、聖典のコトバは、人間の感情や利害によって作られた「空気」から人間を解放し、澄み渡った「空」の彼方、宇宙さえも創造した創造主の自由な境地へと導いてくれるものなのだ。

そのコトバは創造主が更新し続ける創造の徴し(アーヤ)と直接つながっている。
それは「空気」で膨れ上がった人の言葉ではない。だからこそ、人間は「空気」に流されることのない視点を持ち、聖典から直接に、あるいはそれを手掛かりに、天と地に散らばる創造の徴しからコトバを読み取ることができるのだ。

人間なのだから読み続けよう

ただし、聖典も創造の徴しも、それを読むのは人間である。
人間はしばしば自身の愛憎や正邪の基準が先入観に支配されていることに気づけない。そのため、「空気」を聖典に吹き込み、自分の正義を正当化することもしばしばだ。

だからこそ、人間は読み続ける努力を怠ってはいけない。間違えるのは人間の常。間違えたときにそれを認め、受け入れ、あたらな読み方を探せるかどうかにこそ人間の真価が問われる。
聖典も、創造主のしるしも、人の心も──それらを読み解き続ける姿勢が、私たちに自身にとっての新たな創造、つまり、自分自身の再生もまたもたらされるというものだ。

空を見上げてみる

もし「空気」の圧力に押しつぶされそうになったら、いったん立ち止まって「空」を見上げ心の空気を入れ替えてみて欲しい。たとえば、マインドフルネスによる自分自身の取戻し方の一つにも、空の青さが、心の落ち着きを取り戻すと教えている。深呼吸して見上げる空は、「空」は解放への扉なのだ。たとえ、どうしようもない曇天であったとしても、空の彼方に向かい、創造主に平安の挨拶を送るのだ。「アッサラーム・アライクム(平安あれ)」と。

「空しさ」とは実体のないものだ。「空気の支配」がもたらす魂の抜け殻。だからこそ、むしろ自由で無限の存在の可能性を秘める「空」の広がりを思い描こう。創造者が引き合いに出す、夜空に輝く星々も、月も太陽も黎明の光もすべて「空」を舞台にしている。創造主のもつ無限の創造性の偉大さと、あくなき繰り返しを許す寛大さが、人間の自由な生き直しに勇気を与える。

晴れ渡った海辺の高台から遠く水平線を見渡したときの解放感。その瞬間もまた、創造主はこの「空」の下、刻一刻と新たな創造を繰り広げている。それを自分自身に感じるとき、人間はこの世の「空しさ」から抜け出し、「空気」から自由になり、解放を果たし、平安に近づくことができるはずだ。
「空気」をほどき「空」を見上げて、深く息。明日への希望が満ちてくる。


タイトル画像:

湘南平から相模湾を眺める(筆者写す)

本稿は、「空の彼方に平安を祈る」をChatGPT4o との対話を通して全面的に加筆修正した改訂版です。

英語版はこちら。English version here.


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