「魂を汚す」とは:聖典クルアーン「太陽章」第9-10節をめぐって(前編)
「ダッサーハー」
太陽章第9節にある、「ザッカーハー」(「それを清める」の箇所)の動詞「ザッカー」に対しては、日本ムスリム協会訳も、中田訳も、井筒訳も「清める」という訳語を当てている。これに対し、第10節の「ダッサーハー」(「それを汚す」の箇所)の「ダッサー」については、3者は必ずしも一致していない。
「それを汚す者は滅びる」(協会訳)、「それ葬った(背徳に埋めた)者は確かに失敗した」(中田訳)、「没落間違いないぞ、(わが魂)を汚す人」(井筒訳)
とりあえず、ここでは、「ダッサー」の訳語について、「汚す」なのか、「葬る(背徳に埋めた)」なのか、あるいはそれ以外なのかにかんして、サーブーニーとアッラーズィーの注釈を手掛かりに、検討しておこう。
アッラーズィーの注釈
サーブーニーは、この箇所について「自分のナフスを不信心と反逆によって侮り、ナフスを破滅の水源に連れて行った者はたしかに失敗し失った。彼は自分の欲望に従って、彼の主の命令に背く者であり、理性ある者たちは数が減り、無知で愚かな者たちに加わった」と注釈する。
同じ箇所のアッラーズィーの注釈では、まず「ダッサー」は、もともと「ダッササ」であったと指摘する。現に、アラジンには「ダッサー」の語は収録されていない。「ダッササ」とは、「入れる、差し込む」あるいは「隠す、隠匿する」の意味であるとする。この時点では、この「ダッサー」の語に「ザッカー」の「清める」のような定訳は存在せず、またそれは「清める」の反対概念を示すものでもないことも分かる。
修辞法的に言えば、「ザッカーハー」と「ダッサーハー」は「機知による対句」と技法が施されていると見ることが出来るとサーブーニーは指摘しているが、対称的なのは、言葉のリズムである。もちろん、意味もまた、対称的ということなのであろうが、日本語の「清める」と「汚す」のような反対語の対照性とは趣が異なる。
「汚す」と訳せば、日本語訳としての「清める」との間の対称性は確保できるし、語呂もよい。井筒訳のように、原文さながらの倒置法を用いれば、さらに原文に近くなる。しかしそれは、日本語のレトリックであり、訳文の都合である。だからこそ中田訳では、「背徳に埋めた」と補足をつけながら「葬る」という語をあえて使っていたのではなかろうか。本節の「ダッサー」について、アラビア語の語感やニュアンスをも表現できる、外により相応しい日本語を探してみたい。
「ファーシク」というバッファ
「ダッサーハー」の、ダッサーが「隠す」の意味であることを紹介した後、アッラーズィーは、その解釈について、いくつもの可能性に言及している。
「ムアタズィラ派にかんしては」という形で、アッバース朝において、数代にわたりスンニー派イスラームの公式教義となっていた[1]とされる、彼らにいくつもの見解があることを指摘し、それを列挙している。
①「善行を行なう者たちは、自分たち自身を表に出すが、堕落した者たちは、自分たちを隠し、それを秘密の場所に押し込む。」利子の取得を例に出している。つまり、たとえば、利子でとったお金、あるいは利子をとっていることを隠す者たちのことだとしているのだ。
②「善行者の全体の中に、善行者ではない自分自身を隠す」ということ。
③「自分自身を反逆的行為の中にそれに溶けてしまうまで自分自身を隠す」ということ。
④「ナフスの中に悪徳を潜ませる」こと。「それは、執拗な継続と悪徳の徒たちとともにい続けることによる」としている。
⑤「服従を避け、反抗に勤しんだ者は、怠惰になり、見捨てられ、忘れ去られる」ということ。「彼は潜伏と無気力に紛れているようなもの」である。
「堕落者自身による自身の隠匿」「善行者の中への堕落者自身の隠伏」「反逆的行為への潜伏」「悪徳の隠蔽」「アッラーに対する反抗の所為で自分自身がアッラーに忘れ去られること」。これらはいずれも、自分自身の身の処し方の問題であり、いずれか一つが正解になるという性質のものではなかろう。つまり、5つのすべての可能性が「ナフス」にはありうるということだ。
そしてこれらがすべて罪には「中間的立場」があって信者か不信心者かの外に「ファーシク(罪深き者)」と称しうる中間的な状態があるというムアタズィラ派の基本原則[2]に則していて、また、ナフスをいかに働かせるのかによって、その結末も変わってくるという点にも、彼らの理知主義的傾向が見て取れる。
何が悪徳で何が美徳なのか
善悪の基準は、思われているほど明確ではない。たとえば、賢者ヒドルが預言者、ムーサ―に対して示した耐えがたい出来事の故事(《聖典クルアーン》洞穴章66節以降参照)が示すように、そのときは、なぜなのかと理解に苦しむような行為や事象であっても、そこにアッラーの深慮が働いている場合もある。
自分たちが乗り合わせている船底に穴をあける行為、無辜の少年の殺害など、まさに耐え難い出来事である。ヒドルの説明によれば、船底の穴は、彼らを支配する王の船舶没収を免れるためであり、少年の殺害は、彼が極悪人として成長して、敬虔なる良心を苦しめることが明白だったからだという。
しかし、それならば、なぜ王から権力を取り上げるなり、少年が間違いを起こさぬようフォローするなりといった対応をとらなかったのであろうか。心、つまり、この文脈で言えば、ナフスの持ちようで、人間どのようにも変わりうるという可能性をはじめから否定してはいないか。
敬虔さをもってすれば、乗り越えられない困難はないし、「フィトラ(本源の姿)」という無垢の在り方で生まれてくるにもかかわらず、あとから色を付けてしまうのが、宗教であり、周りの大人たちだと考えるのが、イスラームではなかったのではなろうか。
ヒドルは賢者ではあっても、決して預言者ではない。彼が耐えがたいものだと言って行ったそれらの行為は、一つの解決策であったかもしれないが、預言者ムーサ―にして厳しすぎて耐えられない対応はそれ自体が耐えられないものといいうるはずで、そこには別の解決策があったに違いない。
「善行」「悪業」、「美徳」「悪徳」、「篤信」「不信心」という具合に対立的にこれら2つの概念を並べることはたやすいが、それが具体的に一体何なのか、何であるべきなのかは、人により、状況により、事象ごとに異なるはずだ。それに対して、的確な判断を下そうとするのなら、事象ごとの精査が不可欠である。少なくとも、本来であれば、先例による拘束や、事例の類型化からは最も遠い事柄のはずで、最低でも定型的思考との決別が求められる。アッラーはすべてを御存知。 (次週に続く)
脚注
[1] カラーム(神学)の一派。ワースィル・イブン・アターウ(748年歿)を祖とし、彼が罪人の定義に関して、師のハサン・バスリーと意見を異にし、その一団から離れた(イアタザラ)ために」、それ以来彼の一派がこう呼ばれたというのが定説。「9世紀中ごろには明確な一派をなし、その結果当時のムスリムの文化エリートの大部分がこの名で呼ばれるほどになる」(黒田壽郎『イスラーム辞典』(37頁以下)
[2] ムアタズィラ派の基本原則は「タウヒード」「アドル(正義)」「来世の懲罰」「信者と不信心者の中間的立場」「勧善懲悪」の五つ。(『同上』他)
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