「唯一」と「空」:イスラームと仏教の間
「アッラー以外に神はなし」と言われても…
「アッラー以外に神はなし」、イスラームに入信するに不可欠の宣言である。ところが、これがなかなか実感できない。なぜならば、「アッラー」にあたる日本語は、多様性を認め異文化理解がそれ相応に進んだこの時代においても、日常的に、用いられることがないからである。世界に20億人はいるとされるイスラーム教徒ではあるけれど、多くの日本語話者たちにとって入信はおろかそもそもが文化としてであればまだしも信仰の対象としてはとしては関心さえ払われないのは、いわゆる「宗教」と聞くと胡散臭さや怪しさが先立ち、距離を取り、時に嫌悪にさえ及ぶからではなかろうか。だがその背景には、日本語という言語、あるいは、日本語という言語によってつくられる言説の中に、「アッラー」にあたる概念すらその場所がないのではと思われるのだ。
アッラーがいない
もちろん、「困ったときの神頼み」という言葉はあるし、この言葉に縋ってしまうような場面も、日常生活の中には多々あるけれど、この神、あるいは神々は、それこそ、「アッラー以外に神はなし」で完全にその存在が否定されている方の「神」である。アラビア語を日本語的表現を踏まえて訳してみようとするとき、そのことは、明白に示されるように思う。
たとえば、「アッラーフ・アアラム」という言葉がある。直訳すれば「アッラーはすべてを御存知」となるが、日本語に訳せば、「誰も知らない」となるし、そう訳した方が自然でわかりやすい。「アルハムドゥリッラー」という言葉も同様だ。直訳すれば、「すべての称讃は、アッラーのもの」となるが、日本語表現では、「お陰様で」とした方が、これもまたよほど自然で、大抵はそのまま置き換えることができる。
このように、アラビア語では「アッラー」という言葉が明示されているにもかかわらず、日本語では、それなしに済ますことができるし、それなしの方が日本語的なのだ。
「空」とは
なぜそのようなことが起きるのか。「アッラー」は唯一の存在なのだから、日本語の中にいるわけがないと説明することは可能である。しかし、言葉になっていないことは、それが存在しないことを意味しそうだが、言葉になっていなくとも、それが存在していることを言語体系が全体で支えるということはありそうなのだ。そのヒントが、真言密教で言うところの「空」の概念にある。「即身成仏」への悟りの道にそれが示されている。俗世を生きる人間の瞳はどうしたって曇っているし濁っている、自分自身に欲望もあれば、野望もある、あれも欲しいしこれも欲しい、あれもやりたいこれもやりたいと、とどまることを知らない。そこで密教は教える。そういった俗世的なもろもろをすべてを捨て去り、「空」になれと。
「空」になれば、そこにようやく光が見えてくる。大日如来から発せられる叡智と慈悲の光。その光に照らされた「世界」は、俗世のそれと見た目は同じあっても、この光に照らされた今、それは聖なる世界として生まれ変わって、見る人の現前に再生しているというのだ。
「1」とは
こうして「空」に新しい世界を見出すのだ。「無」が「有」に生まれ変わる瞬間だ。この有の境地に入り、この境地に生き続けられる者が、まさに生きながらにしての「仏」状態。「即身成仏」ということになる。
ところで、ここにいう「無」は、「有る/無し」を超越した「無」だという。「無」だと言っても単なる「ゼロ」ではない。この「無」からすべてが生じる「豊かな無」なのだ。それも際限のない豊かさ。
この世さながらの際限のない豊かさ、これはまさに、イスラームにいうところの「1」《言え、かれはアッラー、一なる御方》(『クルアーン》純正章第1節)。すべてを創り出す、比類なき豊かな御方。
もちろん、そこには存在論と認識論の違いがあることは、十分に踏まえておかなければならない。「有ること」が前提の「存在論」的世界観では、「存在が花する」とでも言いうるように、「一」があるからこそすべてがある。
これに対し「見えてはじめて有ることになる「認識論」的世界観では、「空」があるからこそすべてを見出しうる。この根本的な違いは、アッラーからのメッセージをアッラーの御使いが伝えるという伝達の方法と、修行者が苦行の果てに悟ることによってメッセージがつかみ取られるという方法との違いにも通じる。
「1」と「空」
以前にも指摘したことがあるが、量子コンピュータの世界では、「ゼロ」と「1」が固定されず、つねに入れ替わるという。「ゼロ」は「1」だし、「1」は「ゼロ」だということになる。そのおかげで、量子コンピュータの計算処理速度は、従来の10倍に達するとされる。ゼロか1かにこだわらないことによる成果と言えそうだ。
もちろん、この科学的な成果を、宗教の世界に安易に取り込むことはできない。だが、一つ確実なのは、「1」が「1」、「ゼロ」が「ゼロ」のままで固定してしまうと、信者はどこまでも信者であり、不信心者はどこまでも不信心者、味方はいつまでも味方であり、敵はいつまでも敵であり、敵とはついに友達になることさえ禁じられるという状況が、強迫観念を伴って固定化されないとも限らない。決めつけと思い込みの刷り込みが人間同士の誤解、対立、そして国家同士の戦争にまで発展しうることを考えるとき、この「ゼロ」も「1」もの問題は振り返るに値する。
アッラーはすべての創造主なのであるから、最新の科学的知見もその創造の一部に違いない。つまり、イスラームでは科学の成果を教えの中に取り込んでいけるはずだ。
完全⁉なる人間
「即身成仏」はイスラームにいうところの「ムフシン」(それも完全な)にあたるのではなかろうか。「ムフシン」とは、「イフサーン」を行なう人のこと。「イフサーン」とは何かといえば、イスラームを構成する3つの柱のうちの一つで、身体的な帰依を意味する「(狭義の)イスラーム」と精神的な帰依、すなわち信仰を意味する「イーマーン」に続く柱であり、アッラーにつねに監視されていること(ムラーカバ)を、つねに意識(ムシャーハダ)しながら生きることであり、しばしば「善行」と称される。イスラーム神秘主義の修業は、ムフシンになるためという側面を持つが、修行を離れた途端にムラーカバを忘れていたのでは、真にムフシンになったとは言えない。そのことは、おそらく「即身成仏」を目指す修行にも言えることであろう。
つまり、「即身成仏」にせよ、「真のムフシン」にせよ、それを完全に達成できるほどには、人間は強くないと考える方が現実的なのではなかろうか。
ラベリングから自由になる
自分自身を空にして人々のために尽くす「仏」のよう慈悲深き行いにせよ、慈愛あまねき慈悲深きアッラーの満足を求め、アッラーに対してよい貸付をする「天使」のような行いにせよ、24時間にわたってそれらを行なえるのは、至極少数の人々に限られるであろう。だからたとえ一瞬でも一人一人が「仏」になり、あるいは「天使」になる、そうした小さな努力の積み重ねにこそ意味があるように思う。
「即身成仏」を志向するにせよ、「完全なるムフシン」を志向するにせよ、双方に共通することは、欲望から遠ざかり、この世をあたかもあの世であるかのように生き抜こうとすることだ。たとえ、実現は難しくとも、努力はできる。そのためにまず、「ゼロはゼロ」「1は1」的な思い込みや決めつけ、つまり安易なラベリングを行なっていないかを振り返り、その呪縛から自らを解放する。そもそも一人一人はみな違うのだ。
「一」と「空」とは思いのほか近い。「色即是空、空即是色」「一即是多、多即是一」。宗教諸学の再興が、今こそ求められてはいまいか。アッラーフ・アアラム(アッラーはすべてを御存知)。
主要参考文献
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