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名作を連発した奇跡の日々

樋口一葉「たけくらべ」

 都営三田線の春日駅で降りて白山通りを北へ歩くと、通りに面したビルの植え込みに「一葉樋口夏子碑」と刻まれた石碑がある。五千円札でおなじみの作家、樋口一葉(1872〜96年)の終焉の地だ。
 碑文は日記からの引用で「家賃は月三円也 たかけれどもこゝとさだむ」「わづらハしく心うき事多ければ」などと、ぼやいていたりする。
 一葉は、いまでいう貧困女子だった。幼い頃は裕福だったが、17歳で父を亡くして生活苦に陥り、小説のほかにいろいろな仕事をしながらやっと食いつないでいたとか。家賃が高い!という嘆きも切実だったはず。でも、ここに引っ越してきてから書いた「たけくらべ」「行く雲」「にごりえ」「十三夜」などが評価されて、一躍、文壇で注目される存在となった。
 代表作として知られる「たけくらべ」は、吉原の遊郭に隣接する町が舞台だ。遊女を姉に持つ少女・美登利と、お寺の息子である信如、若い二人の淡い恋愛感情を描いている。本書の名場面といえば、なんと言っても雨に濡れる紅入友仙(友禅)。
 雨の中、鼻緒を切って困っている人を見かけた美登利は、友仙ちりめんの端切れを持っていこうとするが、信如だと知ってなぜか渡せなくなる。結局は格子の間から端切れを投げる。信如は友人の下駄を借りて去る。

 思ひの止まる紅入の友仙は可憐しき姿を空しく格子門の外にと止めぬ。

 なんとも美しく切ない。一葉は、小説のラストシーンをこの場面と呼応させている。二人は結局すれ違ったまま日々を過ごす。ある日、美登利のもとに花が差し入れられる。

 或る霜の朝水仙の作り花を格子門の外よりさし入れ置きし者の有けり。

 送ったのは、たぶん信如だな、と思わせて、物語は終わる。感情を胸の奥に秘めたまま、それぞれの道を歩いていく二人。絶妙の甘酸っぱさ。ザッツ叶わぬ恋。
 明治時代にはまだ不治の病と言われていた肺結核が、24歳だった一葉の命を奪った。あまりにも早すぎる晩年だったが、短期間に名作を次々に執筆したこの地での創作活動は「奇跡の14カ月」と呼ばれている。      2020/6/1 夕刊フジ


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