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トリックの鬼はここから
横溝正史「本陣殺人事件」
ちびた下駄にシワだらけの着物姿、まったく風采が上がらない青年が、もじゃもじゃ頭をかき回し、鋭い推理で難事件を解決する。横溝正史(1902〜81年)による名探偵・金田一耕助シリーズは、石坂浩二や古谷一行らによる映像化などで人気を集め、昭和の推理小説ブームを牽引した。『八つ墓村』『犬神家の一族』などが有名だが、その第一作が『本陣殺人事件』。
伯備線の清−−駅でおりて、ぶらぶらと川−−村のほうへ歩いて来るひとりの青年があった。見たところ二十五、六、中肉中背−−というよりはいくらか小柄な青年で、飛白(かすり)の対の羽織と着物、それに縞の細かい袴をはいている。
本作で描かれるのは岡山・真備。戦時中に横溝が疎開していた土地だ。彼の足跡を辿るというウォーキングコースを歩いてみた。作中伏せ字の清音駅では、金田一耕助の顔ハメ看板が出迎えてくれる。コース図の通りに大きな橋を渡ると旧宿場の川辺。「本陣跡」の立札が残る。本陣とは江戸時代に大名や幕府役人が宿泊した家のこと。殺人事件の起きる一柳家は、本陣の末裔で地元の名士という設定だ。
旧街道を外れ、保存されている横溝正史疎開宅へ歩く。のどかな田園風景。家柄や世間体を重んじる閉鎖的な共同体は実体験だったのかなぁ…などと妄想しつつ散歩。疎開宅は昔ながらの雰囲気を残す古民家だった。この家が紅殻塗りだったことで仏推理小説「黄色い部屋の秘密」を連想して密室トリックを考えはじめ、地元に伝わる「琴の怪談」をヒントに…という創作裏話を知ると、特別な場所に思えてくる。
コースの各所に、金田一耕助シリーズに登場するキャラクター像が。真備ふるさと歴史館の前で、主役を発見。頭をかく仕草が作家自身の癖だったのは有名だが、キリッと立つその姿に横溝の気持ちも重ねてみる。終戦時のことを彼はこう書いている。
戦争中圧殺されていた探偵小説もやがて陽の目を見ることが出来るであろう。そうなったら今度こそ本格探偵小説なるものを書いてみようと決心していた私は、昭和二十年八月十五日の正午、ラジオで終戦の詔勅を聞いた瞬間から、トリックの鬼に化したといっても過言ではない。
2020/2/3 夕刊フジ