あるはずのない伏姫の岩穴に…
曲亭馬琴「南総里見八犬伝」
仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌。50代以上なら、即メロディーが思い浮かぶのでは。いざとなったら玉を出せ。1970年代に放送していたNHKの人形劇「新八犬伝」の挿入歌だ。
原作は、江戸時代後期の作家、曲亭馬琴(1767〜1848年)の『南総里見八犬伝』。房総半島の南部、安房国を拠点にしていた里見氏の歴史を題材にした伝奇小説である。刊行開始から完結まで28年かかったという106冊のギガ長編。長すぎてとても原文全部は読めないが、さまざまな訳本や抄本が出ている。
物語の発端は、敵に城を攻められた藩主・里見義実が、飼い犬の八房に「手柄を立てれば婿にする」と冗談を言ったこと。なんと八房は敵の大将首を取ってくる。娘である伏姫は約束だからと富山(とみさん)の洞窟で八房と暮らすことに。そのうちに伏姫のお腹が大きくなる。父の家来が八房を殺し、姫は身をけがされていないことを証明するため、自ら腹をかっさばく。すると傷口から「気」が立ち上り、八つの玉を包みこむと、光り輝きながら飛び回って…。
風のまにまに八つの霊光は、八方に散り失せて、あとは東の山の端に、夕月のみぞさし昇る。まさにこれ数年の後、八犬士出現して、ついに里見の家に集ふ、萌芽をここにひらくなるべし。
飛び散った玉を持つ八人の剣士が次第に集まるなかで、それぞれの出自や武勇伝が語られる。戦闘シーンとか妖怪退治とか幻術とかエンタメ性抜群。当時は大ヒット作となった。
千葉県南房総市の富山には、伏姫が八房と籠もっていたという岩穴がある。伏姫籠穴。いや、あるはずがない。フィクションなんだから。でも、行ってみると、なかなかそれっぽい。自然にできた穴のようだ。入り口は狭めで、内部が少し広くなっている。姫が住むにはちょっと窮屈だが、犬小屋には十分、といった広さ。冒頭の八字を記した八つの玉が洞内に転がされていて、しっかり遊歩道まで整備されている。
馬琴が穴の存在を知っていたかどうかは不明。虚構と現実を結ぶという意味では、アニメの舞台を訪れる「聖地巡礼」と通じるものがあるかもしれない。
2020/7/6 夕刊フジ