私たちは、自分で自分を殺している。
崩壊に向かっている社会を、「自分には関係ない」と無関心になって。
差別や不平等を訴える人たちを、「意識高い系だ」と冷笑して。
電車に飛び込んで死んでいく人たちを、「迷惑だ」と罵って。
私は今、コロンビアの標高2000mの山の中にあるキャビンで過ごしている。
近くにはコーヒー農園や牧場などがあり、飲食店やスーパーは数えるほどもない。人工的な音はほとんど聞こえてこず、鳥のさえずりや牛の鳴き声くらいしか聴こえない。
赤道が近いため昼間はとてもあたたかく、夜は冷えるので暖炉で火を焚いて過ごす。
ここにきてから体調がすこぶる良い。ATMもエアコンもコンビニもなにもない不便な場所だけれど、体はすごく元気だ。
街にいる時は朝6時になっても寝付けない時もあり、睡眠1時間で仕事をしていた。
だけどここにきてからは、日が暮れると眠くなり朝日が登ると目が覚める。
街にいる時はなにもしなくても毎日消耗している感覚があったけど、いまは体内にエネルギー(生命力)が充電される感覚がある。
わざわざ「自然は癒される」なんて普通のことを言いたいわけじゃない。
私たちは便利に殺されている、ということだ。
暖炉を使うのは人生ではじめてだった。最初は火をおこすのも一苦労で、新聞紙に火をつけて薪に燃え移るまですごく難儀した。火をおこせても、炎を持続させるのがまた難しい。
少しでも目を離すとすぐに消えてしまう。かといって、ヘタに薪をいれても酸素がうまく行き届かなくて逆に火が弱まってしまう。火の具合を見ながら、適切な場所に、適切なタイミングで、必要なものを与えてあげなくては炎はながく持続しない。
「まるで人や恋愛みたいだ」と思った。
人の生命力や精神力も、人間関係や恋愛が続くか否かも、暖炉の炎のようなものだ。
放っておけば、いずれ火は消えてしまう。
それを私たちは無意識に理解している。食事や休息をとらなければ人はすぐ死ぬから、毎日食事や休息をとって生命を維持してる。
それはその他の事象にも同様のことが言えるのに、なぜか人間関係や恋愛や生活や人生においては、人はそれをサボりはじめる。
なぜなら世の中が便利になったからだ。
昔のように手紙をかかなくても人と簡単につながることができるようになり、自ら声をかけなくてもインスタントにSNSでコミュニケーションがとれるようになった。
お腹がすいたらUberやコンビニですぐに食べ物が手に入り、寒くなったら暖房をつけて、暑くなったらクーラーをつける。
能動的に考え、感じ取って、自ら動くということができなくなっている。思考停止、すべて受け身だ。
薪は置いてあるだけでは火はつかない。
放っておけば、いずれ風化して朽ちていく。
これは便利な日本に住んでいる人たちの多くが精神を病み、自死する人間が増加していることとリンクしている。
この宇宙には、「エントロピー増大」という法則がある。
エントロピーはつねに増大に向かっている。キレイに掃除された部屋が、なにもしなければほこりまみれになり汚くなるように。整理整頓されている机の上が、いつの間にか散らかっていくように。
世の中のすべてのモノは放っておけば混沌としていく。
水が下へ下へと流れていくように、人も放っておけば混沌として低きに流れていく。
だけど生命だけは、エントロピー増大の法則に抗っている。
木材やプラスチックなどの無生物は、エントロピーの影響をうけて崩壊するのを待つのみだが、私たち生命だけはそのエントロピーに逆らう機能をもっている。
毎日飽きもせずにせっせと新陳代謝を繰り返し、細胞分裂をしてつぎつぎと新しい細胞をつくっている。
私たちの体内にある細胞は、崩壊する前に先回りして「自らを壊す」ことによってこのエントロピー増大の法則に抗っている。この「自らを壊す」機能を失えば、体は崩壊し、死が待っている。
生命は、私の体は、自然の法則に必死に争いながら、私たちを生かそうとしている。
それなのに私たちは、便利な社会の中で惰性で生きて、受け身になってじっと誰かが自分を救ってくれることを心のどこかで待っている。自分ではなにもせず、何も壊さず、プライドだけは高く持って、誰かが自分を見つけてくれることをただ待っているのだ。
崩壊に向かっている社会を、「自分には関係ない」と無関心になって。
差別や不平等を訴える人たちを、「意識高い系だ」と冷笑して。
電車に飛び込んで死んでいく人たちを、「迷惑だ」と罵って。
自分が孤独なのを、努力もせずに世の中のせいにして。
それが自分を生かしている生命を裏切り、殺す行為だということも知らずに。
エントロピーによって崩壊することを、
命がただ燃え尽きるのを待っている。