善悪の問い
※本文は思案の実験であり、現行措置に対するパブリックコメントや何かしらの行動への教唆を目的とした文章ではありません。あくまでも、自粛を含む措置を履行するかどうかは個々人の判断と規制に委ねられるものです。また、僕の人間観についても公正中立ではありません。
何を善しとし、何を悪しとするか。何を選び取るものとし、何を切り捨てるべきものとするか。これほどまでに善悪が根底から問われた機会は、僕が生まれてからはなかったかもしれない。ヒトはこれまでも、自然状態での暴走を避けるために法律を作り、直観的に悪しとするものを規制し、社会という機構がなるべく公正に機能するよう仕向けてきた。しかしながら「人と会うこと」「食事を共にすること」そのものが直観的に悪だとみなされるのは、かつて宗教が興隆し、宗教に立脚した生活が全世界的に一般的だった頃以来ではないか。
勿論のこと、本来上記は条件付きである。一人一人の行動が病を蔓延させる手助けになっているかもしれないという状況下「それでも敢えて今行う」という選択そのものへの批判が本質であろうことは疑いようがない。それでも、これまでと決定的に違う価値判断を下している。他のヒトと会うこと、他のヒトと食事を共にすること、共に酒を飲み語らうこと、共に歌うこと、共に演奏すること、これらの築き上げてきた「文化的な瞬間」を、この病は「それがなくても生存のみが優先されるべきコト」と位置付けたのだ。「悪」という言い方は的確ではないかもしれないが、「人間が捨て去ることのできる執着」として制度的にみなされたと言っても過言ではない。口で芋を咬み、吐き出して酒を造ってきた。笛を吹きならすことで様々な感情を表現し、聴覚を通じて体験する芸術を生み出してきた。集会所で語らい、過去を伝承しコミュニティを保ってきた。現存するヒトが生まれる遥か昔から行ってきたこれらの一切合切を「人間が究極に先送りできる諸事」として位置づけるのは異様だ。自らの進化の過程を否定し、ヒトがヒト自身として存在するための必要条件ではないものとしてこれらをみなすなんて芸当を、ヒトがしようとしている。
事物をつぶさに観察し、善悪を個々人の判断する領域として捉えているヒトにとって、この主張がやや風呂敷を広げすぎている気がするのは間違いないだろう。(というのも、時間的条件の付加をしていないからだ。)一方、感覚として認め得ると思ったヒトはなぜそう思ったのかを考えてみてもらいたい。文章の上ではあるが、目線を窒素で覆われた事物の世界から自らの中へうつしてみよう。1年間の制度的制約をもって、自らに芽生えた諸事物に対する「不謹慎」の情は、何を根拠としているか。躊躇いはどこから生まれているか。ただ自らの生存の恐怖と、他者の命を奪うリスクだけだろうか。「人類とウイルスは人類の方が優生であるべきだ」との価値観だろうか。あるいは・・・?
想像してみてほしい。ヒトが酒を酌み交わし、語らっている。今まで文化的だと思っていたその瞬間は、どこか影を帯びていないだろうか。楽器を吹く集団が目の前にいる。今まで疑うことなく耳を傾けていた光景に、後ろめたさを感じないだろうか。その根拠は時限で片づけられる問題だろうか。これまで差しはさまれることのなかった「この光景が正しい在り方だろうか」という問いが挟まっているのではないか。
ここまで回りくどく感覚の根拠を求め続けたのは訳がある。確信していることだが、この奥底に「それを誰かが悪いと言っていたから」「社会がそれを認めていないから」という根拠を抱いている人が必ずいるのだ。読者にいるかどうかはわからない。あるいは僕も、突き詰めるとその根拠に立脚している価値判断があるかもしれない。ヒトを傷つけることが悪いという、他者への憐憫の情に立脚するものとは異なり、この行動は行動単体ではヒトを傷つけない。寧ろ、ヒトという生き物が感情を表現する手段としてこれまで大切にしてきた行動群だ。その善悪を問うのだから、当然共感によって生み出される価値判断ではない。興味がないことはあれど、避けるべき・究極に不要であるという判断はウイルスなしに生まれようがないはずだった。では、ウイルスが身近なものではなく、罹っても特段に問題がないと考えていたらなぜ躊躇うのか。ヒトと話すコトなかりせば生きていても意味がないとしたら、それでも行動への出力は変わらないのか。一つ一つ棚卸をしていったとき、その果てにあるものが「誰かに命じられたから」「ヒトが見ている気がするから」であったヒトは、心に大衆への信仰が横たわっていることに気づくだろう。
頭を事物のある世界へ戻す。現世に戻ってみれば、社会を維持するために言いつけられていることを守らないことによるデメリットが多くある。生活基盤を人質にとられていてはひとたまりもない。無論従うのも已む無しと判断できることは多くあるので、倫理の問いに答える間でもなく物的価値判断をくだすことができよう。それでも、垣間見た心の中に大衆の声が横たわっていたヒトに問いたい。その判断は本当に正しいだろうか。その判断を、本当に望んでいるだろうか。現代的な病として時代精神に原因を追究するのはやや主語が大きいとしても、長年の圧政に耐えるような確固たる意志をヒトが持ち続けているだろうかと問うと不安になる。
望んでも叶わないことは多い。望んでも生涯実現しないこともある。然し、望むことそのものについて事物界に不可能な理由が存在していることと、望むことそのものの土台が挿げ替えられていることとの間には隔たりがある。僕たちの獲得した自我が、究極には学習の蓄積であったとしても、そのマテリアルを元に「構築した判断」と「構築することなく忍び込んでくる判断」との間には隔たりがあるのだ。
この1年間、様々な人間の差異を研究することができた。そのことによる発見の1つが上記だ。価値判断が他者の統計的反映に委ねられているヒトが存在し、そのヒトの中には個体から生まれるはずの直観がない。統計的に大衆が善しとすればそれが「善」となり、統計的に大衆が悪しとすればそれが「悪」になる。芸術についても意見形成についても、同様の反映で行う。(部分的にそうであるヒトもいる。)ヒトとはそんな生き物だろうか。個体が個体として特徴を持つことができるのが、ヒトの命が値段のない最大級の価値を持つ所以ではなかろうか。ヒトはもっと、ヒトの中から立ち現れる感覚や判断と、諸事物との差異への葛藤を感じ、表現すべきではないだろうか。(ヒトが野生に還ってしまう心配に応えるために。僕の考えでは、この作業によって自然状態は寧ろ解消の方向へ向かう。自らを構成するものの観察は深い共感を得るための途たるからだ。自らの中に発見した弱み、触れられたくない課題、感覚が他者に眠っているかもしれないという可能性からくる共感は、自らの心をどれだけ深く棚卸したことがあるかという経験に比例して強くなるだろうと考えている。)
上記の問いは、その具体的場面での応用として、新型コロナウイルスの圧政下、僕たちの積み上げてきた文化をどのように位置づけるかという問いに帰ってくる。決して、それ単体が悪ではないことを僕は強く心に留めていたい。これは僕の価値判断として、感覚として、人と語らうこと、共に食べること、観劇すること、演奏することそのものへの疑いのない喜びを忘れない。ニューノーマルは適応の様式であり、僕の心のノーマルではない。無論、他の個体の価値観からくる反論はこれに対抗しうるが、根本となる価値判断を忘れている者が多すぎる気がして危惧している。ウイルスの根絶が為されたとき、真っ先に歓喜の声を上げる者でありたい。
最後に。この文章は何らの政治的主張を持たない。ただ大衆への信仰を呼びかける者への密かな抵抗として、また僕の思案の実験として書き落としたものだ。多少なりとも問いを投げかけた者として責任を持たないと明言するのもどうかと思うが、そうでもしないと根拠のない「不謹慎」の誹りを逃れられないという背景があるからだ。ヒトとして、一個体として、少なくとも僕は本質について問うことを忘れず、結果として同じ出力であっても、善悪の判断を大衆の声に委ねない者であろうと改めて決意する。
2021年4月29日
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