β-335 のんふぃくしょん
私はフィクションよりもノンフィクションのほうを好む。
創作だとどうしても描写がきつかったとしても、状況が厳しかったとしても、「でも、フィクションなんでしょ?」ってことで、なかなか感情移入もしない、作品としての面白さは享受しているつもりではいても、やっぱりこういう穿った見方をしていると、尾を引かないというものがある。
その点ノンフィクションは実際に起こったできごとを各方面の取材であったり、当時の文献から分析したりして、まとめたりしているものが多いので、実際にはリテラシーの養成は必要にせよ、こちらのほうが読了後もしっかりと刻まれやすい部分が多いとはね。
なんでこういうことを言うかというと、週末、ある一冊のノンフィクションを読んだからなんだよね。
内容としては、社会病理に関するものなので、当たり前だけどすっきりしないし、もやもやする。
でも、数か月前から気になっていた題材だったので、手に取って、読んでみたかったし、それを読んで、いろんな思いを理解して、まとめてみたかったものもあった。
被害者視点で書かれていたものだったけど、被害に遭った方の事件前の平穏な日常、展開、その後と綴られているのを見ると、「どうして・・・」という考えに至ってしまったし、踏みにじるような結果に嘲笑されているような気がして、それが現実なのか、だとしてもむごすぎる。。
とくに非がないのであらば、被害者心理に共感しがちなので、現実は実際こうだよという事実は知ってはいても、一個人としては、極刑でもいいし、それでも足りないよという感情にもなってしまう。
どんな本を読んだかは伏せておくかな、そもそもよく取材をOKしたよ、その当時全国的に戦慄が走るような事件であったし、過熱していったそうで。
やめてほしいな、でもやめないんだよなあ。
それもまた病理なのかもね。
元からあんまりワイドショーを見ない類だから、事件当時はあんまり深く調べなかった。
ひとまずの結果が出てから、私自身もこの事件については、けっこう調べて、そしてこの本に詳細が書かれているということだったので、読むようになった。
小劇場での映画化にもなっているし、様々な番組で特集は組んでたみたいだけど、やっぱり小説でしっかりと答え合わせしたかった、もっとも答え合わせといってもひとつの論にしか過ぎないんだけど。
ふつう、こうした事件が被害者目線で描かれるということは、心中を察して出ないでしょう、でもやっぱり最期の抵抗と今後おんなじ過ちを繰り返さぬようにということを始め、ほかにも様々な葛藤・懸念あったんでしょうけれど、書籍化して後世に伝えたかったってのもあるのでしょう。
これ以上考えてもいいんだけれど、最適解なんてのはないし、きりがない。
判断に迷って、翻弄されることはなにも小説内の当事者だけではない。
無関係に思えるものでも、明日は我が身と思って行動していかないと、もし巻き込まれてしまった場合に、ひどく狼狽すると思うから。
もちろん対策しても、うろたえるんでしょうけど、気持ちとしては持っていたほうが良いよ、と自分に言い聞かせながら今後は活動していけるように。
ノンフィクションと対峙するのはとんでもないエネルギーがいるし、正直なところ目を背けたい、でも自己防衛のために、また折を見て読んでいこうと思うあした・の・β<ベータ>でした。