自己愛と自己批判と自己肯定と自己否定

自己の二文字を含む熟語として、現代で最もよく耳にする言葉は自己肯定感だと思う。

自己肯定感を上げようというムード。
それは個性が大切だ、みたいな現代の風潮と確かにマッチしている。
ネガティブはやめて楽しくいこうぜみたいな言葉の響きもあって、そうはなれない人の願望としても、自己肯定感を上げたいという言葉はよく使われる。

でも、僕は自己肯定感だけで自己ということを考えるのはかなり危険だと思っている。
単一の視点から物事を捉えることの危うさという一般論も一応挙げておきながら、僕の考えをここに述べていきたい。

自己肯定があるなら、反対の作用としての言葉は自己否定があると思うけど、世間的には自己肯定感が低いと呼ばれる人が本当に自己否定的かと言われると首を傾げたくなる。

例えば、自己肯定感が低い人が実はめちゃくちゃ自分のことを優先して他人に迷惑をかけてしまうみたいなことはよくあることだと思う。

本当に自己否定だけをしているのなら、そこから学んで自分を高めることもできるはずなのに。失敗から学ぶみたいに、自分のダメなところに対するアプローチを考えることもできるはすだ。なのにそれをしない。自分に否定されている自分のままでいる。

逆に自己肯定感がめちゃくちゃ高そうな人が、自殺や自殺未遂を行うこともある。自分を肯定できているのなら何があっても死ぬことはないはずなのに。

この2つの事例があるから、一自己肯定感が高い人は自己否定に陥りがちな人に比べていいとは一概に言えないのではないかと思う。

自己肯定的な人間と自己否定的な人間の性格と行動のミスマッチ感は、この2つの相反する作用に自己愛という要素が隠れていることによるものだと思っている。つまり、自己肯定と自己否定の横軸に加えて自己愛、自己を愛しているか愛していないかの縦軸があるということだ。この関数における座標によってようやく自己ということの理解ができるのではないかと思う。

自己肯定感が高いことと自己愛が強いことはなんだか似てるような感じでややこしい。
そして、恐らく自己愛が強すぎる人は自己肯定感が高そうに見えて、そんなことはないという事例が多いような気がする。

例えばオラオラと我が道をゆくような人。自分がすることに確信がある。でも、それが他人に否定された時、ものすごい剣幕で怒ってしまう。そして、ヒステリックに泣いてしまう。みたいなことが起きる。いやいや、ほんとに自己肯定感が高いのなら他人の意見なんて気にしないでしょうと思いたくなるが、実際はこういう人は自己愛が過剰に強いという説明の方が理解しやすいと思う。
大好きな自分が構成している価値観をポキンとおられることは、その人の生そのものの脅威になることを意味する。だからそれは必死に否定しなければならないし、否定できないのなら、激しく悲しむことで同情を誘うくらいしか手立てがない。そして、それで同情すらしてもらえないのなら、大好きな自分を受け入れてくれない、この世からおさらばする。自殺するのだ。
過剰な自己愛は、他人に対して攻撃的な反面、クリティカルな攻撃を受けた時にはめっぽう弱い。


次に自己否定的なのに自己愛が強い人について。
自分はダメだダメだという割に自分が可愛いから人に迷惑をかけても気にしない。ネガティブなようでいて、結構しぶとくて、ダメな自分が周りから視線を集めていることが生き甲斐になったりもする。大好きな自分とそれを認めない他者とバチバチでバトルして、それに敗北する私のかっこよさ、みたいな物語を作ってしまうこともある。


まあこんな風に例を示していくと、要はバランスが大切という安直な結論になってしまう。

でも、あえて言うなら正しく自分を愛して、正しく自分を肯定するのが良いと思う。

ダメな自分を愛する愛の強さは必要だけど、ダメなことをする自分を否定する自分も必要だ。ここに自己批判という成長の要素が生まれる。

自己否定ではなく、自己批判にするためには自分を愛することが必要だ。

そして、どれだけ頑張ってもダメな時はダメでそれでも生きている自分を愛することは、究極の自己肯定感となる。

まあこうはいってもなかなか実現することは難しい。
今の僕は病気のせいでニートをしているけれど、しょうがないと思ってもうちゃっかりしてる。これは自己肯定だ。そして、そういう自分を恥じてもいる。治ったら早く社会復帰をしたい。これが自己批判。そしてこうやって今だからこそできる思考や、本を読んでどれだけ人に優しくなれるかを考えている自分を愛している自分もいる。
だから、今の僕は辛いけど決して不幸じゃない。

今の僕がそう思えるのなら、まともに暮らしている人ならもっと幸せな気持ちになれると思う。

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