湖畔篆刻閑話 #6「伝統こそ最先端」和田廣幸
ヘッダー画像:蝴蝶夢 2022年
(左から印稿、印面、印影)
私の住む琵琶湖の西岸には、南北に走る比良山系の山並みが続いています。標高1214mの最高峰である武奈ヶ岳をはじめ、1000mを超える峰々が連なり、この季節は琵琶湖でのウォータースポーツや湖水浴を楽しむ人々の姿とともに、夏山を楽しむ多くの登山者の姿も目にします。
8月に入ると、1週間ほどで暦の上では「立秋」を迎えます。地球温暖化の影響で、まだまだ厳しい35度超えの猛暑日が続くと思いますが、なぜだか立秋と聞いただけで、そしてその文字を見ただけでも、どことなく涼しく感じるのは実に不思議なものです。
秋の到来は私にとって格別で、とりわけ「秋の夜長」が何よりも心待ちでなりません。普段からそうなのですが、寝床に就いてから眠りに落ちるまでのしばしの間、ゆっくりと目を瞑り、その日一日にあった出来事に思いを巡らし、脳裏に舞い上がったままの塵をゆっくりと沈澱させてゆく――。そうしたことが一日の反省を含めて、私のルーティーンになっています。
書斎に入り机に向かうときは論理的に物事を思考するのには適しているのですが、何ものにもとらわれない〝夢想〟するかのような考えは、やはり体を横たえリラックスした状態の方がより適しているようです。
今号のこのnoteの文章も、その構想はと言えば、こうした眠るまでのひと時に浮かんだ内容をまとめたもので、寝床の中ではまるで夢を見るかのように、自由に時空を彷徨い漂うことができるのです。
眠りに落ちるか落ちないか、まさに深くまどろんでいる時などは、中国・戦国時代の思想家である荘周(荘子)のあの「胡蝶の夢」の説話のようで、「さて、夢の中の自分が現実なのか、現実の方が夢なのか?」といった、現実と夢の世界が錯綜し、しばしの「逍遥遊」に浸っているかのようです。
いよいよあと数日で花甲(huājiǎ:還暦)の年を迎える私ですが、ここしばらくの間、こうしたひと時に「自分と書や篆刻の縁」を、おぼろげながらずっと考え続けていました。中学の頃から始めた書や篆刻、そしてこの世界に魅了され、中国に渡って暮らした25年もの月日が、まるで一眨眼(yīzhǎyǎn:瞬きする間、一瞬にして)の如く感じられ、時々折々の出来事が走馬灯のように瞼の裏に浮かんでは消えていきます。
「人はどこから来て、どこへ向かうのか……」
秋の夜長はこうした哲学の命題のようなことさえも、ふと考えてしまうのです。今回はこれまでの自分を振り返り、60歳以降の第二の人生を一体どのように生きるべきか、そんな漠然とした思いに駆り立てられ、随分と逍遥的なとりとめのない話を敢えて綴ることをお許し願えればと思います。
朝起きて洗面台の鏡に映る自分の顔は、目、鼻、口をはじめ左右対称(シンメトリー)になっており、肩や腕、そして足など、その全てが体の中心線を基準にして左右対称の姿です。生まれた頃より常に見慣れた、ごく普通のこうした自身の姿ですが、私たちが生きるこの地球上のほとんどの生命体はこうした左右対称の姿を呈しています。
一体それはなぜか。
それは生命の受け皿となる体が、細胞の分裂によって形成されるからに他なりません。イメージ動画などで一度は目にしたことがあると思いますが、受精した細胞が2から4へ、そして更に4から8へと次々に分裂していくあの現象です。
また、分裂に際しても未知なる自然の法則が働き、左右均等に分裂を繰り返していきます。私たち人間は勿論のこと、他の生物である昆虫や動物などの場合も同様に、中心線を基にシンメトリカルな体を形成してゆきます。植物もまた時に形を変えながらも、こうした法則に準じているのです。
つい先日のこと。ユネスコの第46回世界遺産委員会で、「北京の中軸線――中国の理想的な都市秩序の傑作」が世界遺産リストに登録されたとの報道を目にしました。北京の故宮(紫禁城)は1987年にすでに登録済みですが、今回の指定は北京の故宮を中心とした南北を貫く中軸線上と、その左右に対称的に配置された建造物に焦点を当てたものです。
人類の営みの成果であるこうした歴史的建造物も、普遍の法則に則しており、その他にも古代ピラミッドやタージマハルなど、こうした例を挙げればきりがありません。これらに対して私たちが無意識のうちに〝美しい〟と感じ、その〝荘厳さ〟に心を打たれるのは、この地球上に生を受けてよりこの方、久遠ともいえる長い時間における様々な記憶が、私たちのDNAに深く刻まれているからに外なりません。自然と湧き出るこうした感動は、まさに生命に対する共鳴であり、畏怖であり、崇拝なのだと思えてならないのです。
私を生み育んでくれた父母、そして私の父母にはもちろんそれぞれに父母がいるわけで、過去に目を向けてそのルーツを一つひとつ遡れば、猿から人類への進化をはじめ、遥か昔の地球上における生命の誕生、更には私たちが存在するこの宇宙の起源にまで遡ることができるはずです。
生命体を生み出した地球をはじめ、月や太陽といった天空の無数の星々が究極のシンメトリーともいえる球体をなしているのは、こうした神秘なる普遍の法則を思うとき、深い感動を覚えるのと同時に、緩やかにこの事実が腑に落ちてゆくのです。想像すれば摩訶不思議なる時空を超えた無量無辺の世界が自身の眼前に広がり、瞼を閉じて横たわる私がまるで宇宙の中にすうっと溶け込み、同化してゆくような錯覚に陥るのです。
綺羅星の如く書や篆刻の世界に出現した歴代の名手たち――李斯、蔡邕、張芝、鍾繇、索靖、王羲之、王献之、欧陽詢、虞世南、褚遂良、顔真卿、李邕、孫過庭、張旭、懐素、柳公権、蔡襄、蘇軾、黄庭堅、米芾、趙孟頫、祝允明、文徴明、徐渭、董其昌、張瑞図、黄道周、倪元璐、王鐸、傅山、劉墉、丁敬、鄧石如、何紹基、趙之謙、呉昌碩……。
彼らが生きた時代に、過去遠々劫の彼方より今の私へと命のバトンを渡してくれた祖先たちが、たとえその生活した場所が違ったとしても、この地球上の同じ時間軸上に生きていたのだというだけで、単なる「歴史ロマン」の一言では括ることのできない、魂を揺さぶられるような、身震いするほどの深い感動が私を包みこむのです。それは、『史書』の記載などとはまるで違った、例えば日本の縄文式土器や中国の秦漢の遺物である封泥などに残留する当時の生の人間の指紋痕に触れた時のような、実に生々しい〝生存の証〟を感じるのです。
さて、ただ単に好きというだけで追い続けてきた書や篆刻の世界。振り返れば知らぬ間に47年もの月日が流れていました。この間、言葉では表しきれない様々な紆余曲折もありましたが、人生で直面する無数の選択の中で、常にこの世界を選択し続けてきたからこそ、今の自分があるのだと気づかされます。
ふとした「偶然」から始まったことが、いつしかなるべくしてなったという「必然」に感じられ、そして、今では自身が生涯をかけて取り組むべき「使命」へと変化してきています。
過去・現在・未来……。これからも永遠に続くであろう、こうした時間の推移を思うと、今の私は時の流れの最先端に臨んでいることを自覚せずにはいられません。未来が現在へと移り行くとともに、瞬時にして過去へと収斂されてゆく……。それはまるで時の川の流れのように……。今の自分がこうした過去からの一切を背負っているのと同じく、書や篆刻の現在もまた、これまでの歴史の全てを包含して存在しているのです。
これまで述べてきたシンメトリーや生命のバトン、時間の存在など、これらは地球上における普遍の法則に違いありません。人は髪型や服装によって多少の外見は変えることができたとしても、遺伝子たるDNAを変えることはできません。私たちはこうした法則をはじめとした全てを、あるがままに受け入れるしかないのです。
今回のタイトルには「伝統こそ最先端」という言葉を選びました。伝統とはすなわち、これまでの先人たちが築き培ってきた叡智の全てであり、時の流れの中にあっても、決して流されることのない偉大な巌、泰然自若なる崩れることのない大きな山であると思うのです。
私はこうした伝統を全て受容し、学んだうえで、そこから自分にしかできない「创新」(chuàngxīn:革新)をすることこそが、自らの使命ではないかと思い至ったのです。
こうした思いに立ち、花甲以降の自分をどう生きるべきか、何をすべきか。しっかりと見極めた上で、自らの使命を果たすべく、弛むことのない一歩を歩んでいけたらと願って止みません。
〈次回は9月9日(月)公開予定〉
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