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インタビュー「アジアの作家たちの語りに耳を傾け、他者への想像力を育む」荒木駿(編集者)

〝文学を通じてこれからのアジアを考える〟とのテーマのもと、2024年4月に始動した、春秋社(東京都・千代田区)の新シリーズ「アジア文芸ライブラリー」。チベットにはじまり、台湾、マレーシア、インドネシアと、現時点で計5作の文学作品が刊行されている。
 本シリーズを立ち上げ、運営の中心に携わっているのが、同社の編集者である荒木あらき駿しゅんさんだ。アジア各地の文学作品に光をあて、シリーズとして世に問い始めたのはなぜか。荒木さんのこれまでの経歴とあわせて、同シリーズにかける思いを聞いた。


戦争や暴力が渦巻く歴史のなかで
人間はどう生きてきたか


―― 2024年4月に始まった「アジア文芸ライブラリー」が好評を博していますね。

荒木 ありがとうございます。春秋社は仏教書や音楽書をメインに手掛けている出版社で、これまで弊社の本を扱ってもらっていなかった独立系書店さんなどからご注文を多くいただくなど、目に見える変化が生じています。
 近年、書店でアジアの特集コーナーが設けられるとなると、韓国、中国、台湾、香港の作品が棚に並び、とりわけ中華圏はSFやミステリーが中心になっていました。もちろんそれは素晴らしいことなのですが、そういったなかに「アジア文芸ライブラリー」から刊行したチベットやマレーシア、インドネシアの文学作品が1冊でも並ぶようになった光景を書店で目にすると、とてもやりがいを感じます。

 正直に言うと、このシリーズを始めたのは私の思いつきのところがあって、果たしてアジアの文学作品に関心を持つ人なんているのだろうかと心配していました。いざ始めてみると、書店やメディアをはじめ、多方面から連絡が入ってきて自分でも驚いています。最近では人前に出て話をすることも増えてきました。

―― シリーズ第一作を飾る『花と夢』(ツェリン・ヤンキー/星泉訳)は、第61回日本翻訳文化賞を受賞されました。チベットのナイトクラブで働く4人の女性たちの物語で、聖と俗、チベット人と漢人の世界、都会と農村といったさまざまな境界を浮き彫りにしながら、女性たちの悲哀が切実に物語られていて、胸を打たれました。まさにこのシリーズを象徴するような一作だと感じました。

荒木 春秋社ではこれまでチベットに関する本も多く刊行してきました。新シリーズを立ち上げるにあたって、春秋社の伝統やイメージに則りながらも、真新しさを出していきたい。ちょうどその両方の思いが重なる作品でもありました。
 また、シリーズを通しての私自身の関心として、暴力や戦争が渦巻く歴史のなかで、人間はどう生きてきたのか。それらの記憶をどう継承してきたのか。そうしたことに向き合いたいという思いがあります。

 『花と夢』の場合は、2000年代に中国政府が実施した西部大開発によって、特に女性が社会的に追いやられてしまい、そこで性産業が彼女たちの受け皿になったという状況があります。主人公の女性たちは、ラサという都会に出てきて、そこで性被害などのつらい目に遭いながらも、いろんな人と出会うことで自分を語る言葉を身につけていく。悲しい物語ではあるものの、その過程がすごく魅力的でもあって、そこで語られる言葉が本当に生き生きとしているんですよね。

―― 暴力の歴史と言えば、現時点で同シリーズから出されている作品には、アジアの各地域の日本占領下の時代を描いたものが多くありますね。

荒木 マレーシア出身の華人で、現在はアメリカで暮らしている、ヴァネッサ・チャンの『わたしたちが起こした嵐』(品川亮訳)は、特に戦争のもたらした暴力に向き合っている作品と言えます。2024年1月にアメリカで刊行されたばかりのこの作品では、1930年代のイギリス統治下と、1940年代の日本占領下のふたつのタイムラインでのマレーシアが描かれています。

 30年代のタイムラインでは、主人公のセシリーという主婦が、「アジア人のためのアジア」という理念に共鳴して、日本人スパイに協力していきます。一方、40年代のタイムラインでは、日本占領下のマレーシアで、セシリーの子どもたちが強制労働をさせられたり、慰安婦として連行される危機にさらされたりといった悲劇の歴史が描かれています。

 小説のなかでは歴史的に必ずしも正しい記述がされているわけではないことに留意は必要ですが、いまこういった物語がマレーシア出身の作家によって書かれるということが何を意味しているのか。「マレーシア=親日国」だけではない、さまざまな背景に思いを馳せる必要があるのではないかと思い、本作を刊行しました。

 また、シリーズ最新作の『美は傷』(エカ・クルニアワン太田りべか訳)では、日本軍のインドネシア占領や、日本政府も黙認した1965年9月30日のクーデター未遂に端を発する共産主義者を中心とした大虐殺の歴史などに触れられています。ただ、この作品の面白さは、そうした悲劇の歴史を真正面から受け止めるだけでなく、一歩引いたユーモアの混じった視点で語られるところにもあるのですが。

 いま、ウクライナではロシアによる侵略戦争が起きていて、歴史的に見れば、同じようなことを日本も過去にアジアに対して行ってきました。その歴史を知っているからこそ、それを世界に語り継ぐ責任があるのではないか。そのためにも、アジアの作家たちの語りに耳を傾け、自分たちも考えるきっかけにしていきたいという思いがあります。


転機となった小笠原諸島への旅


―― 荒木さんと文学の出合いについてお聞かせいただけますか。

荒木 中高生の頃から、日本の近代文学を中心に読み始めました。泉鏡花や永井荷風といった幻想的・耽美的な世界観の文学作品が好きでした。いま海外文学の仕事をしていますが、熱心に読んできたのは、海外よりも日本の文学作品ですね。
 ただ、国書刊行会が70年代から80年代にかけて出していた『世界幻想文学大系』というシリーズはかなり熱心に読みました。紀田順一郎さんと荒俣宏さんが責任編集を務めて、杉浦康平さんと鈴木一誌ひとしさんというグラフィックデザイナーが装丁を手掛けているのですが、とても美しい箱に入っていて、表紙にはイタリアのマーブルペーパーのような装飾紙が使われていて、古本屋でこつこつと集めて読んでいましたね。

 あと、高校生のときに、ヘルマン・ヘッセの『車輪の下』と出合って、この世界になじめない自分自身と重ね合わせて読んでいました。

―― 村の神童とされた主人公が、都会の神学校に進学するものの、規則に縛られた生活などに心身ともに疲弊していくという物語ですね。荒木さんの経歴を拝見したのですが、一度高校を中退されてから、鍼灸しんきゅう 師の専門学校に通って国家資格を取得され、それから大学に進学されたと。

荒木 そうですね。高校進学後、将来やりたいことがないなかで、雰囲気に流されて大学に行こうとはどうしても思えなかったんです。大学受験に打ち込む周囲になじめず、図書館に通って本を読んだり、アルバイトしたりして過ごしました。
 いま、私が春秋社のウェブマガジンで連載を担当している、詩人でフランス文学者の岩切正一郎さんが、文学について、「人が魂のなかに持っている、外界の現実とは違う夢の領域にある世界」というふうな言い方をしているんです。私が高校生だった頃に、文学をはじめ芸術に求めていたのは、この世のごちゃごちゃしたものとはちがう、もうひとつの美しい世界だったのだろうという気がします。

 結局、高校にはほとんど行かなくなり、そのかわりにアルバイトで貯めたお金で青春18きっぷを買って日本一周の旅に出たりして過ごしていました。一番の転機になったのが、高校3年の夏に訪れた小笠原諸島の父島への旅です。まだ世界遺産に登録される前で、観光客がそれほど多くなかった頃でした。

 ユースホテルで1か月ほど滞在していたのですが、仕事を辞めてきた人や会社をクビになってしまった人、1年のうちに10か月間働いて残り2か月はずっと旅をしている人など、さまざまな人たちと出会ったんです。受験勉強の意味が見いだせず、学校に行くのがつらいと思っていた自分に、「人生っていろんな選択肢があるんだな」と気づかせてくれた旅でした。

 高校を中退してからも、バイトでお金を貯めては旅に出るといった生活を続けていて、その旅先で鍼灸師の資格を持つ方と出会って、鍼灸の背景にある東洋思想に興味を持つようになりました。


科学だけでは納得のいかないこと


―― いわゆる東洋医学の世界に惹かれたということですか?

荒木 そうですね。陰陽五行説など、鍼灸の背景にある思想や歴史に関心を持って、鍼灸師の専門学校に通い始めました。鍼灸は2000年以上前に中国で生まれて、日本には6世紀ごろに伝わったのですが、日本のほうが針が細かったり、〝気〟の考え方がちがっていたりと独自の発展を遂げていきます。実技よりもそうした座学の授業を面白く聞いていました。

 それで国家試験と専門学校の卒業を控えて、これからどうしようかと思っていたタイミングで、国際基督教大学(ICU)に通っている高校の同級生と秋ごろに再会したんです。話を聞くと、大学で文化人類学なる学問を勉強しているとのことでした。私も興味が出てきて、文化人類学を学んでみたいなとICUを受験したら、合格することができました。

 大学では英語で鍼灸についての発表やディスカッションができればいいなと思って進学したのですが、次第に関心がそれていって、最終的には文化人類学と歴史学を専攻しました。卒業論文では、山形県の村上地方および最上地方に伝わる「ムカサリ絵馬」を取り上げました。
 独身で他界した故人があの世で結婚して幸せになってほしいとの願いを込めて、その婚礼を描いた絵馬を寺院や観音堂に奉納する民間習俗なのですが、家族のあり方が変化した現在でもなお、ムカサリ絵馬が奉納されている意義を明らかにしたいと、フィールドワークをして論文にまとめました。

―― 人の身体や精神、あるいは生命そのものに一貫して関心をお持ちなんですね

荒木 このままならない世界で、いろんな災いや、あるいは幸せなことが自身の身に降りかかってきたとき、人間はそれに対してどのような解釈をして意味づけるのか。もっと言えば、必ずしも安泰ではない生活のなかで、何か可能な選択肢としてそこに信仰とか宗教というものがあるということが、どういうふうに我々の生活を支えているのかを知りたいと思ったんですね。

 例えば、ある人が風邪を引いたときに、医学的な説明ではウイルスに感染したからという仕組みを解明する「How」の説明ができます。でも、その人と同じ空間にいた別の人が風邪をひかなかったとすると、それは科学的にはもはや確率論でしか説明ができない。

 一方で、それを信仰の文脈で考えると、「How」とはちがって、「Why」の説明ができる。例えば、先祖の供養を怠ったからとか、あるいは妖術・呪術をかけられたからだというふうに。その説明が正しい間違っているという話ではなく、人は科学的な説明だけでは納得できないことを前にしたとき、それを自分に納得させるためにどのように解釈や意味を作り出していくのか。そこに私は関心があります。

―― 科学だけでは納得のいかない、人間の存在にかかわる問いと向き合うのは、まさに先ほど話されていた「アジア文芸ライブラリー」において、さまざまな形の暴力と向き合うということにもつながっていきますね。


他者への理解と自己への問い直し


――「アジア文芸ライブラリー」の今後の展望についてお聞かせいただけますか。

荒木 春頃に『至上の幸福をつかさどる家』(アルンダティ・ロイパロミタ友美訳)というインドのカシミールを舞台とした作品の刊行を予定しています。

 現在のインド政府はヒンドゥー・ナショナリズムを煽って、政権の維持を図っているとたびたび指摘されています。例えば、支持率が落ちたときに、カシミールでインドからの独立を目指すイスラム系のゲリラ組織を弾圧し、支持率の回復を図るといったふうに。
 そうすると、インド政府にとって、カシミール解放を目指す勢力というのは、政府の敵であるとともに、政府自身の権力基盤を逆説的に強化する存在でもあるわけなんです。実際に、ゲリラ組織はインド政府の息のかかったものであるという言説もまことしやかにささやかれており、もはや確かなことがよく分からない状況になっています。

 そうしたなかで、カシミールでは戦争で家族を亡くし、まともな医療的ケアを受けられずに心を病み、最終的には武器を手に取ってしまう人がいる。そんな途方もない暴力をテーマにした小説になります。

 現代インドをめぐる政治状況はとても複雑ですので、本書には地域研究をされている拓徹たくとおる先生に、2万5千字ほどの解説を書いていただく予定です。

―― 編集者としての荒木さん個人の目標はありますか。

荒木 個人的には家族やジェンダーといったテーマにも関心を持っていて、家族社会学やジェンダーに関する本をいろいろと用意しているところです。

 以前にインドのラダック地方に2、3か月ほど滞在したことがあります。ラダックはインドが実効支配しているチベット文化圏に属するところで、そこで一妻多夫婚の家族と出会いました。一妻多夫婚はすでに禁止されていますが、かつてそれで結ばれた人たちなどがいまも暮らしているんですね。
 一妻多夫婚の背景には、文化的な家族観のちがいがあるのはもちろん、土地や財産が限られたなかでも、働き手を確保しながら出生数を抑えるという経済的な利点も働いていると言われています。いずれにしても、そこには私たちが考える、男女の一対一の関係や永遠の愛といった結婚観とはちがう価値観がありますよね。
 要するに、私たちがいま当たり前のように考えている制度や価値観、あるいは自分らしさといったものは、自分の育った環境や立場といった外側にあるものによって規定されているところが多分にあると思うんです。

 他者を理解する難しさは、〝自分の外側に置かれた自分を作っているもの〟に気づくことの難しさと裏表の関係にあります。でも、そういった自分の抱えている観念を問い直すことなしに、文化を判断することはできないというのが、私がこれまで旅をしたり、文化人類学を学んできたりしたなかで実感していることです。

―― 「アジア文芸ライブラリー」はまさに私たちの身近な他者であるアジアの人々を知り、自己を問い直すきっかけを提供してくれていると思います。

荒木 ありがとうございます。もう1つ、編集者としての私の野望があって、それは春秋社に文芸の伝統を復活させるというものです。いまでは仏教書や音楽書のイメージが強い春秋社ですが、もとは1918年に作家や出版人によって立ち上げられた出版社なんです。最初に出した本が『トルストイ全集』で、企画を発案したのは植村宗一です。作家名は直木三十五で、いまの直木賞の名称のもとになった作家です。
 
 こうした歴史を持つ出版社ですので、「アジア文芸ライブラリー」を皮切りに、いま一度、春秋社に文芸の伝統を復活させたいと思っています。

―― 荒木さんの試みを応援しています。同シリーズから出されている本は、造本の美しさもとても印象的ですね。

荒木 装丁に関しては、毎回、デザイナーの佐野裕哉さんにブックデザインをはじめ、誰に装画を依頼するかなど綿密に相談しています。「装丁をきっかけにチベットやインドネシアの文学を初めて読みました」というお声を聞いたときは、すごく嬉しく思いました。

 私自身、近代文学の古本コレクターでもあるんです。といっても、貴重な初版本を集めるというのではなく、例えば藤田嗣治とか棟方志功といった昔の有名な画家たちが装画を手掛けた本が意外と安価で手に入ったりするんですね。

 美しい本って、それを持っているだけで嬉しかったり、買って集めたくなったりすると個人的に思うんですよね。そうしたコレクションする楽しさを、このシリーズでもぜひ感じてもらいたいです。



荒木駿(あらき・しゅん)1990年、奈良県生まれ。国際基督教大学教養学部卒業、一橋大学社会学研究科総合社会科学専攻修士課程修了。現在、株式会社春秋社で人文書、海外文学を担当。2024年4月、新シリーズ「アジア文芸ライブラリー」を立ち上げ、シリーズ全作品の企画・編集を手掛ける。

聞き手・構成:南部健人
写真:Yoko Mizushima


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