自分以上の自分に無理になろうとしない
いつも自然体で、いつも無理ない空気が漂っている人は私の憧れです。
そういう人たちもそういう人たちなりの、
というよりもしかすると人一倍の気遣いがあるのだと思います。
けれど根本的な空気が自然で、嘘のない人は、
やっぱりすごく素敵で輝いていて、それでいて人を惹きつけるオーラがあるように思います。
noteを書き始めて、自分の中にあるものと、
書いているときの自分(外に向けて出しているもの)
を、より意識するようになりました。
いくら自然体で、いくら感じたことをそのまま表現したくても、
書いてるうちにどんどん外向きの自分になっていることがよくあります。
そういうときは、ふと振り返って、自分の中に意識を向けて、
これは本当に私の思いなのかな?外向きに装ってる自分ではないかな?
と思うようにしています。
最近よく思うのは、
私はいつも自分以上の自分になろうとしていたなということ。
生きていく上では、当然今の自分ではダメで、
努力して成長しなければいけないことがたくさんあります。
けれど、何においても、すべてにおいて、
他人と比べて、現実の自分よりも、いつももっともっとこうでなければいけない、
を自分に課して生きてきたなとnoteを書いていて思うことが多くなりました。
私は社交的ではないのに、社交的を装って、
頭も良くないのに、機転がきいて頭が回る人を装って、
そうして自分の外に何重もの頃もを着て生きてきました。
もちろん若いうちにそういう努力をすることは、
無駄なことではないと思います。
けれど、自分という存在は、あくまで自分でしかないのに、
人と比べて、自分以上ばかりを求めるということは、今ここに生きている自分自身を、誰よりも自分自身が否定して生きていることなんだと思います。
そしてそれは#1に書いた、「誰かのための世界」にいつの間にか乗せてしまっているということだと思うのです。
でも、余計に入っている力を抜いて、
もういいか、ありのままの不器用でダメな自分も受け入れよう、
それが自然な私なのだから、と思えるようになれたら素敵だなと思います。
それでも、ホンモノの関係の人たちは、
離れずにいてくれる。
だってホンモノの関係の人達は、本当はそんな私のこと、
とっくに気がついていて、わかってくれて、
それでもそばにいてくれる人なのですから。
まだまだそこまで全てを素直にはなれませんが、
自分を知り、それでも自分を受け入れ、
淀まず歪まず、まっすぐに生きられたら、
きっとそこにはまっすぐで素敵な物語が広がっているような気がします。
無理な鎧は外して、
素肌の自分で生きられたらしあわせですよね。
自分以上の自分を無理に求めることをやめて、
明日もまた自然に笑えるように、
ある方の受け売りですが「淀まず留まらず」生きましょう。
ありのままの私を受け入れてくれて、
今日たくさん笑わせてくれた大切な友人に感謝して。
ハレ