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フルーツを食べなよ

心も身体も弱りきって電話で話す力も出ない時、友達がメールで送ってくれた一文だった。

「いま、フルーツが浮かんだ。フルーツを食べなよ」

言われるがまま、その日から果物を意識して食べた。
バナナや柿は苦手なのでパス、グレープフルーツは降圧剤を飲んでいるから食べられない。 
キウイは鬼太郎のお父さんを思い出して、恐る恐る口にする。

皮をむいて食べるのは面倒くさいな。
昔むかし職場で、みかんの皮むくのが面倒で……と言ったら年配の方に絶句された。

カットフルーツは楽でいい。

ふだんの買い物では少しでも安いものを選んでいるので、果物を買うのは緊張する。そして毎回とはいかない。

それでも私は、少しずつフルーツを口にした。
この時、食欲が無かったわけではない。ごはんは通常とおり食べることが出来ていた。
そこにほんの少しだけフルーツを意識して摂ることで、気持ちが変わっていけたと思う。

プラセボ効果であったとしてもいい。
良い結果が出たもの勝ちだ。


◇◇◇


病院に入院すると、朝昼晩食事が出てくる。

病院のごはんを「給食」と呼び表すことを、自分が入院するまで知らなかった。
面会のためのデイルーム的なところに「給食便だより」というのがあるのに気づき、そう呼ぶのかと知った。(病院によって呼び方は違うのかもしれない)

給食には、デザートとして果物が添えられてくる。毎回ではなかったけれど。

その果物が楽しみであった。

バナナが出ればがっかりするのだが、ぶどうには心が躍り、缶詰のパイナップルもみかんも友達のように思った。
梨は家族みたいだし。

ほんの少しだけ、二口、三口くらいの分量のフルーツは、私の身体に力を注いでくれた。
がんばれでも、よくやってるね、でもない。
果物として果物たる美味しさ。


おそらく私には、友達がくれた「フルーツを食べなよ」という言葉と共に果物が結びつき、パワーフードになっているのだと思う。

ここまで書いておきながらだが、私はさほど果物が好きではない。
嫌いではない。
あればいただく。
美味しくいただく。

うちの母は、 
「朝の果物は金、昼は銀、夜は銅」
「果物がないと落ち着かない」
という人で、私はスーパーに行くと母用に何かあるかしらと果物を物色する。

次男は柿が好きで、

「柿を嫌いな人の気持ちがまったくわからないんだよな」

と嘆き、私に苦手な理由を説明してみてと請う。

柿には恨みもないし、ディスりたくはない。
人との会食の席で、残すより食べた方がいい雰囲気の時は食べる。
でもバナナだけは食べない。小学校の給食で、十分過ぎるほどがんばったから。


フルーツは何でもいいのだろう。

ある人にとってフルーツは読書だったり、ホットココアだったり、自然の中に身を置いてボーッとすることかもしれない。
無我夢中でスポーツをすることも、誰かのフルーツかもしれない。

私には noteを書くこともフルーツですと言えたらいいのだが、そうではない。

noteを書くことは大切なことに違いないのだが、フルーツの役割とは違う。

私の中で、かなり違う。


私のなかに"フルーツ"というものが生まれたのは、友達の言葉がきっかけであったのは確かで、その時のことを思い出すと胸が熱くなる。

食べものから力をもらう私は、生きものだよなと思う。

果物には季節があるのも魅力のひとつ。


パート先のパン屋では、マンゴーやパイナップルを使ったパンが、栗やぶどう、いちじくを使ったパンになり、秋が来たことを知らせてくれる。

これから、ドライフルーツやりんごが出てくるのかもしれない。


◇◇◇


夫の昼ごはんを作りながら、生協の宅配で届いた青りんごを食べた。

台所でワイルドに食べるフルーツが、行儀よくお皿に盛られたものよりも美味しい。

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