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フィンスイミングに、人生を賭ける!

フィンには、無限の可能性が眠っている。 私はそう確信している。なぜなら、私の人生そのものをガラッと変えたから。

県予選すら通れなかった競泳選手。そんな私が、フィンスイミングと出会った瞬間から、すべてが動き始めた。

テレビやラジオなどメディア出演。オリンピック選手や芸能人、著名人との親交。世界的企業への就職。起業。

初代アジアチャンピオン。日本記録保持者。日本代表監督。パラリンピックコーチ。フィンスイミングの普及に命を懸ける起業家。

誰も想像しなかった道を、全力で駆け抜けてきた。そして今も、覚悟をもって進んでいる。必ず次のステージへ導くと。

17歳で出会ったフィンスイミングも、気付けば今日で19年目へ突入。せっかくの誕生日なので、新しいことを始めようと決心し、20年目突入に向け、フィンスイミングを通して培ったことを少しずつNoteでアウトプットしていきます!


17歳、運命の出会い

はじめまして、足ひれ社長のヨシです!

競泳では県大会決勝すら進めなかった高校生。それが私でした。それも、かろうじて出れないというレベルではなく、余裕で届かないレベル。

高校3年生。当時の競泳のコーチにその道を見出してもらったフィンスイミングとの出会いは、まさに運命的でした。1ヶ月前に申込みを決めた5月の日本選手権。人生初の試合で、いきなり400mビーフィンで日本新記録を樹立。

その勢いのまま9月のアジア選手権では、なんと200mビーフィンで0.01秒差の大接戦を制して優勝。さらにアジア新記録まで達成しました。

この年は国際ルールの改正により、このビーフィン種目が正式種目として採用された初めての年。つまり、私は200mビーフィンの初代アジアチャンピオンとなったのである。

ありがたい運にまみれたフィンスイミング人生のスタート。
しかし、これは序章に過ぎませんでした。

畳みかける試練との戦い - 凡人スイマーからアジアチャンピオンへ

念願かなって掴んだ初めての正代表。これが試練の旅の始まり。

アジア選手権、4×200mリレー。8年間破られていなかった日本記録更新を狙う大一番の舞台。そこにはルーキー時代の選手生活の中で最も過酷な試練が待ち受けていました。

それも遠征出発5日前、突然本番で使うフィンが割れるアクシデント。それまで一度も経験したことのない出来事でした。しかも、身体の力をフィンに伝えるのに重要な根元の部分。何とか先輩に応急処置をしていただくも、ベストな状態とは程遠い。

さらに出発前夜、久しぶりに実家の自室に泊まった際、数年ぶりにぜんそくの発作に襲われた。
おまけに本番では、突如、謎に足首に激痛が起こり、フィンを履くことすらままならなかった。

神様は超えられるものにしか試練を与えない

フィンが割れた最初の試練の際の先輩の言葉を胸に、レースに挑みました。

結果は...
8年間止まっていた日本記録を無事に更新!

この経験は、私に教えてくれました。
正しい環境と機会があれば、誰もが輝けるということを。そして、それを提供することが、私のこれからの使命なのだと。

三つの顔を持つ理由

試練を乗り越えていく中で、一つの確信が生まれていきました。

フィンスイミングの無限の可能性を開くには、一つの視点だけでは足りない。 競技者として、指導者として、そしてビジネスパーソンとして。 この三つの視点が重なり合って、初めて見えてくるものがある。

ただし、この「三つの顔」も、時とともにその比重は変化していきました。

2021年、大きな転機が訪れる。それまで突っ走り続けて酷使してきた身体にガタがきて、私の左足首は手術するしか対処のしようがない怪我を負ってしまいました。フィンを履いて泳ぐと激痛が走り、泳ぐことが難しい障害で、選手としての活動が現実的に難しい状況に追い込まれたのです。

正直、今だから言えますが、まだまだ夢半ばで競技者を諦めたくはありませんでした。 でも、その時考えたのです。 こんな状態で騙し騙し自分の練習をして中途半端に時間を使うより、指導を受けにきてくれている教え子たち20名にその時間を100%使った方が、より一層フィンスイミング界の発展に繋がるのではないか。

自分1人だけの人生を満足させるよりも、20人の人生が豊かになった方が、コスパもタイパもいい。 そう割り切って、なくなく指導者に全振りすることを決意。

人生には、時として望まない、受け入れざるを得ない変化が訪れます。 でも、その変化をきっかけに、新しい可能性が見えてくることもある。

私がなぜこの三つの顔を持つことになったのか。 そして、それぞれの立場でどんな挑戦をしてきたのか。 この後の章で、順を追って簡単に話していきます。

決断の瞬間

大学院を修了して、就職したのは意外にもスポーツとは全く関係のない、通信大手ソフトバンク。フィンスイミングNo1という肩書きで面接・プレゼンを突破し、孫さん率いる世界的企業の一員になることができました。

新卒で配属されたのは、激務で知られる営業部門。朝から晩までパソコンと睨めっこで、帰宅は終電が当たり前。2.0あった視力は半年で0.7に…️。

それでも世界を目指して競技に取り組み、入社後の研修時から毎朝大きなフィンを持って出社する日々。結局その日は練習に行けず、そのままフィンを持って終電で帰るということも数えきれないほどありました。

平日は練習を積めないため、土日も休む暇はありません。練習や合宿に行ったり、大会に出場したり、普及活動のイベントに参加したり。そんな生活を続けるために、最強の効率を見つけ、ついに割り切りました。仕事中は身体の休息時間、練習中は心の休息時間だと。

毎日が戦場のような職場で、必死で先輩に食らいつき、少しずつ成果も出始めていました。このまま進めば、さらにステップアップした仕事を任せてもらえたはず。

でも、心の奥底では常に問いかけていました。 「このままでいいのか」と。

フィンスイミングに、人生を賭けたい

その思いを伝えた時、多くの人が私を止めようとしました。 当然です。せっかく掴んだ大企業での将来を、競技人口の少ないマイナースポーツなんて言われているフィンスイミングのために手放すなんて、誰が見ても無謀な選択でした。

しかし、たった1年という短い期間でしたが、世界的企業の最前線で学んだことは、一般的な会社の10年分に匹敵する濃密な経験だと思っています。
全てのハブのような部署だったこともあり、企画・営業、組織の動かし方、リソースの最適化、戦略的思考、ブランディング、マーケティングなどなど。この学びは今でも、経営者として会社を運営する上での重要な指針となっています。

そして何より、この1年で確信したのです。「仕事と競技はほぼ同じ」どちらもどれだけ突き詰められるかが結果につながってくる️。中途半端な関わり方では、仕事の成果も、フィンスイミングの未来も変えられない。 すべてを賭けなければ、見たい景色には辿り着けないと。

日常のすべてが、フィンスイミングのために

退職を決めた後も、最後の日まで仕事に全力を注ぎました。 それは、その時間さえもフィンスイミングのために活かせると信じていたから。送別会の日も課の誰よりも最後まで仕事をして、遅刻して参加したことも覚えています。もう辞めるような奴に直前まで仕事を振って任せてくれた上司には感謝です。

また、限られた練習時間を最大限活用するため、日常のすべてをトレーニングに変えました。 デスクワークの座り姿勢は泳ぎのフォームを意識して。 歩き姿勢は腹圧と腹筋を意識した、体幹トレーニングに。初売りでのお辞儀は、体幹と胸椎のエクササイズの機会に。 満員電車での通勤時間は、立ち寝で寝不足解消の休息時間に。

「なんでそこまで?よくやるね・・・」
「さすがにそれは馬鹿」

よく言われました。何なら呆れられました。
でも、私には確信がありました。 選手として結果を出すには、24時間365日、生活のすべてを最適化する必要がある。 それは、ただの「練習」ではなく、「生き方」の選択だったのです。

「努力って楽しい」

研修時に洗脳のように染み込まされたソフトバンクのバリューであり、私のモットーであるこの言葉は、そんな日々を支えてくれました。 本当に素敵な言葉で今でも変わらず私のモットーであり行動基準です。後の指導者、経営者としての活動も、この時の覚悟が基盤となっています。

せっかくなので紹介しておきます。

世界No.1になるために。
どのような心構えで日々の仕事に取り組むのか。

困難や無理難題に向かって突き進み、その壁を乗り越える。
つらいし大変だけど、乗り越えた先には、達成感やお客さまの笑顔がある。

300年成長し続ける、ソフトバンクグループのDNA。
特に大切にしたいバリューを明確にしました。

「No.1」「挑戦」「逆算」「スピード」「執念」

これはソフトバンクグループで仕事をする上での行動指針です。

激しく変化する事業環境の中で勝ち抜くために、
五つのバリューを実践することで、
あらゆる局面も乗り越えることができると考えています。

「No.1」
やる以上は圧倒的No.1
何事にも「勝つ」「一番を目指す」と思い続けることで、必ず一番になれる時がきます。そしてそのNo.1が圧倒的になることで、常に新しいチャレンジ、新たな成長につながる可能性が広がります。

「挑戦」
失敗を恐れず高い壁に挑み続ける
現状維持を常に疑い、リスクを恐れず常にチャレンジし続けることで、大きな成長につながります。

「逆算」
登る山を決め、
どう行動するか逆算で決める
目標に対して積み上げただけでは、達成できる位置は限られます。目標を見据えて、○カ月後、○週間後、来週とブレイクダウンすることで、「今やるべきこと」が明確になります。

「スピード」
スピードは価値。
早い行動は早い成果を生む
1週間後の100%より3日後の7割。PDCA(Plan-Do-Check-Act)を早く回すことで、より早い結果につながり、そしてより早いネクストアクションを起こすことで、より良い結果が生まれます。

「執念」
言い訳しない、脳がちぎれるほど考え、
とことんやり抜く
「難しい」「できない」と思うよりも「どうやってできるか」を常に考え続けるような強い思いを持ち、「できる」と信じて、最後まで諦めずにやり抜けば、必ず道は開けます。

バリュー _ ソフトバンクグループ株式会社<https://group.softbank/philosophy/value>

指導者としての覚悟 - 理論と実践の19年

私の指導者としての基盤は、競技での経験だけではありません。
むしろ、様々な場所での学びと遊びと実践が、今の指導スタイルを形作っています。

多彩な現場経験が育んだもの

指導者のタマゴとしてまず学んだのは、スポーツ指導者養成の名門、東京YMCA社会体育・保育専門学校。入学して1ヶ月後にはお客さんの前に立ち、毎週毎週リアル現場で指導実習を行った。

また、この2年間で、水泳をはじめとするスポーツ全般の様々な指導資格を取得。ここでの学びは、単なる資格取得以上の価値がありました。
後に同校で教員として働き、主任まで務めることになりますが、この経験は指導者を育成する立場としての視点も与えてくれました。

その後、もっと指導の幅を広げたい!と、国立で唯一の体育大学、陸の孤島とも名高き「鹿屋体育大学」に編入学。大学ではさらに深いスポーツ科学の勉強と保健・体育科の教員免許を取得。

さらに、同大学院へ進み、奇才;ミュンヘンオリンピック100m平泳ぎ金メダリストの田口信教先生のもとで学ぶ機会を得ました。やはりオリンピック金メダリストという世にも珍しい超人から直接指導を受けられたことは、常人では知り得ない高みからの視点や哲学に触れることができました。

水との多様な関わり

理論だけでなく、実践の場でも貴重な経験を重ねてきました。水との関わり方は、実に多岐にわたる。

  • スイミングスクールでの子供から大人までの水泳指導

  • 小学校での水泳授業の指導

  • 海での臨海学校指導とライフセービング

  • 水中運動教室での指導

  • フィンスイミングイベントでの指導

  • パーソナルレッスン

  • トライアスリートへの水泳指導

  • 高齢者向けのスタジオ運動指導

  • 専門学校での水泳指導

フィンスイミングの指導に必要なのは、単なる競技経験だけではありません。人としての成長段階の理解、安全管理の知識、そして何より「水」という特殊な環境を徹底的に理解することです。

これらの学びと経験の全てが、現在の私の指導メソッドの土台となっています。そして、この基盤があったからこそ、次に語る様々な指導の場面で、柔軟に、そして確実に対応することができたのだと、今になって思います。

指導者としての転機

高校時代 - 原点となる経験

そもそも指導者としての第一歩は、さかのぼること高校時代。

神奈川県立秦野高校水泳部。特に強豪でもない公立高校で、私は同級生の指導に関わることになりました。サッカー部出身の彼が、懸命に水泳に取り組む姿。その彼が、ベストタイムを更新した時の喜び。「関野のおかげだよ」という言葉は、今でも心に残っています。

この経験が、人を指導することの喜びを教えてくれて、受験の面接では何度も熱く語りました。

教え子第一世代との挑戦 - 二足の草鞋の日々

フィンスイミング指導者としての本格的な挑戦は、当時自身が所属していたNAIA Finswimming Teamの指導を任されたことから始まりました。

日本代表選手として自身の競技活動をしながら、後輩たちの指導を担当することになった。正直なところ、最も試行錯誤した時期でもありました。

日中は仕事。夜は自分の練習と後輩たちの指導。 練習中は「選手としての自分」と「指導者としての自分」の間で揺れ動き、練習が終わればその日の振り返りと一人ひとりの目標達成に向けたロードマップを考える日々。

ゼロからのスタートでしたが、4名の選手が日本代表の座を掴み取り、さらにその中から2名は、日本記録保持者として長年、日本を代表する誰もが知るトップ選手となりました。

代表を目指さずとも、確実に自分の目標に向けて一所懸命に取り組み、きちんと達成する選手たちの姿は本当に素晴らしく、この選手たちが、私の誇らしい教え子第一世代です。

炎の体育会TV - フィンスイミングの転機

そしてほぼ同時期、フィンスイミング界にとって大きな転機となる出来事が。

TBS「炎の体育会TV」です。これは日本のフィンスイミング史の中で最も大きな転機と言っても過言ではありません。

当時、私はフィンスイミングの普及活動に全てを注ぐため、新卒で入社したソフトバンクを1年きっかりで退職したばかり。そんなタイミングもあり、私もコーチとしてお手伝いをすることに。このテレビ出演は私の周りにも反響は大きかったです。

同番組、前年の企画では、オードリーの春日さんがマスターズ日本代表となり、世界大会で銅メダルを獲得。この成功を受けて、今回はより高い目標が求められていました。

今回は春日さんに加え、K-1初代世界チャンピオンの魔裟斗さん、本田圭佑のモノマネで大ブレイクのじゅんいちダビッドソンさんなど、豪華メンバーへの指導。朝からレッスンをして、夜には選手と自分の練習、そして深夜に芸能界のプロフェッショナルたちと真剣勝負の日々が始まりました。

仕事とはいえ、芸人さんたちの覚悟や勝負強さ。テレビの裏側で見た彼らのプロ意識。そして、まったく新しい形でのスポーツとの関わり方。多くの発見がありました。

最終的に、チェコのプラハで行われたマスターズの世界大会で、春日さんとじゅんいちさんが、なんと、銀メダルを獲得!
前回を上回る結果で大盛り上がりの企画となり、現地に同行した私もタッチの瞬間、達成感と安心感で全身の力が抜けました。しばらくはこの回が最も視聴率が高かったとか?

この経験は、フィンスイミングの新しい可能性を見せてくれました。競技としての側面だけでなく、より多くの人が楽しめるスポーツとしての魅力。この気づきは、後の「Fin-D Swim School」の構想にもつながっていきます。

AQUA FinDの誕生と第二世代 - 夢を追える場所を作る

フィンスイミング界は、大きな課題に直面していました。

体験会イベントやデモンストレーション、そして「炎の体育会TV」の反響により、競技への関心は急速に高まっていました。ありがたいことに「やってみたい!」という声は、確実に増えていました。

しかし、その思いを受け止める場所が足りないという新たな課題。
既存のチームは受け入れの限界を迎え、せっかくの可能性が閉ざされようとしていました。

そんな中、当時所属していたチームでも新規受け入れが難しくなっていました。でも、熱心に練習に通う選手たちがいる。彼らの努力を無駄にはできない。

そこで決意したのが、AQUA FinDの立ち上げです。
業界の受け皿を増やすため、そして何より、真剣に取り組む選手たちの可能性を開くために。

当初のメンバーは、私のもとでフィンスイミングを体験し、ゼロから本格的に始めてくれた選手たちだけ。まさに彼らが、教え子第二世代となります。

第一世代での経験を活かし、さらにブラッシュアップした指導を届けることができました。あの時よりも経験も積んでいるので、若干の余裕もある。ただし、やはり新たな課題もありました。

それは、第一世代よりも年齢が低いこと。私の指導理念は、競技成績第一主義ではないのだが、大人と違って年齢区分という期限付きの区分があるジュニア世代にとっては、年齢区分が上がってしまう前に、ある程度のレベルまでいかなければ、ユース(17歳以下)の日本代表やユース日本記録を出すチャンスを逃してしまう。だから、指導理念である「人間力向上」と競技力向上のバランスが難しく、その葛藤との戦いでもありました。

しかし、選手たちの努力は素晴らしいものでした。
結果として、多くの選手をユース日本代表、ユース日本記録保持者へ育てることができ、ジュニア区分が終わってからは、日本選手権優勝、日本代表選手、日本記録保持者へとステップアップしてくれた。

ジュニア日本代表監督 - 15人の未来を託されて

2017年、専門学校で教員をしていた時期に、新たな重責が与えられた。
それはジュニア日本代表監督として、選手ではない立場での初めての海外遠征。しかも行き先はロシア・シベリアの地。

これまで選手として何度も海外遠征を経験してきた。でも、15名の中高生を1人で引率するのは、まったく違う次元の話。

事前準備から現地での対応、国際大会の説明、泳ぎのアドバイス、生活での注意点や海外での注意点、安全管理。やるべきことは無限にありました。

しかも、15名のうちほとんどが初めての遠征、初めての海外。絶対にミスは許されないと日々過ごしました。そのプレッシャーは、想像以上のものでした。

この自分で自分にプレッシャーをかけていくスタイルは、選手として常に臆病だった自分の弱点から来ているのかもしれません。でも、指導者としてはその慎重さがむしろプラスに働きました。

遠征は勤務していた専門学校での実習や宿泊研修の引率経験を参考に、以降も踏襲できるシステムを構築し、事前に毎日のスケジュールを何度も頭の中でシミュレーション。

海外では何が起こるかわからない。遠征先では急なトラブルもある。常に先回りして対策を練りました。

手を抜こうと思えば、いくらでももっと楽に遠征を終えられた。でも、性格がよくも悪くも完璧主義。振り返れば、最後まで気を抜かず、監督としての責務を全うしたと思っています。

この初めての国際大会監督帯同の経験は、今でも鮮明に覚えています。そして、あれから8年、この時のユース代表選手たちも現在では立派な大人となり、2名は今でも日本代表選手かつ日本記録保持者としてフィンスイミングを続けてくれている。これ以上の喜びはありません。

その後も、ジュニア日本代表監督として、国際大会や強化合宿を重ねてきました。学校での仕事と同様、世代によって子どもたちの性格や考え方は日々移り変わる。同じ接し方や指導方法では通用しない。
教員としての経験がフィンスイミングの指導に活きている部分は多く、すべての活動が相互にシナジーを生んでいるのを日々感じます。

新たな挑戦 - パラリンピアンとの学び

これまでフィンスイミング一筋でやってきた私にとって、大きな挑戦となったのが、パラ水泳の指導でした。

ある日、信頼している先輩から突然、視覚障害を持った水泳選手の指導の依頼を受けました。正直、最初は戸惑いました。これまで障害者の方と関わる機会はほとんどなく、中でも視覚障害者の方と出会うのは人生で初めてに近い経験。その方は全盲で、普段から白杖を持って生活しています。

さらに、高校時のお恥ずかしい実績の通り、私の中で競泳はあまり得意分野ではない。そんな私に、パラリンピックを目指す視覚障害者への水泳指導ができるのだろうか。最初はまったく自信が持てず、断るつもりでした。

ただ、私のことをよく知る先輩がわざわざ声をかけてくれたということは、客観的に見たら、任せられる要素があるということか?と少し自信にもなりつつ。

練習風景を見学させてもらった際、「ここなら自分でもアドバイスできそうだ」「ここをもうちょっとこうしたほうがいいんじゃないか」と、自然に考えが浮かんできました。そして先輩から「他に頼める人はいない」とそそのかされ、最終的には覚悟を決めて引き受けることに。

しかし、実際の指導は想像以上に困難極まり無い。今までの指導の中で最も大変だったと言っても過言ではありません。

指導面において何より最大の壁は、「見本が見せられない」ということでした。目が見える人であれば、新しい動作を伝える際には、まず見本を見せてイメージを作ってもらうのが指導の鉄則。そして悪い例と良い例の説明もビジュアルで行うことができます。

フィンスイミングの指導でも、選手たちには、必ず毎回泳いでいる動画を見せ、泳ぎ終わったらすぐにそれを確認できるようにしている。しかし、視覚障害者の場合、この方法は使えない。

そこで求められたのが、言語化能力とボキャブラリーの豊かさでした。感覚を言葉で伝える。しかも、その感覚は人それぞれ違う。これを視覚情報なしで伝えることは、本当に難しい挑戦。

試行錯誤の末に気づいたのは、まず相手の感覚を理解することの重要性です。自分の感覚を伝えるよりも、相手がどう感じているのかを理解することが先決でした。

泳ぎのことだけでなく、日常生活での感性や動きの癖、性格、泳ぎの癖、メンタル面。そういった部分を総合的に理解できるようになってくると、相手の感覚も手に取るようにわかってくる。その信頼関係が構築できてからは、感覚的な部分を伝えるのも非常にスムーズになりました。

結果として、指導を始めてからステップバイステップで確実に実力をつけていき、まずは強化選手の標準タイムを突破。次には国際大会の日本代表標準タイムも突破できました。

そして依頼を受けた当初では夢のまた夢だった舞台、歴史的な東京2020パラリンピックの選考会にて、その切符を勝ち取り、悲願の出場を果たすことができました!
私もコーチとして、パラリンピック日本チームの一員として、一生に一度できるかできないかの華やかな舞台を経験。

この経験は、単なる私の挑戦以上の意味を持っていました。むしろ、フィンスイミングがもつ可能性を世に広める挑戦だったと考えています。

なぜなら、競泳では凡人で大した成績も出せなかった自分が、フィンスイミングで培った理論や考え方を軸とした水泳指導で、パラリンピックの代表選手を育てることができたのです。これは、フィンスイミングの理論や考え方が、水泳、競泳にとっても普遍的な価値があることの証明になったと思っています。

逆に言えば、水泳や競泳の常識で伸び悩んでいる選手やうまくマッチしない選手には、フィンスイミングの理論や考え方を伝えることで、その悩みを解決できる可能性もあるということ。

そのため今では、水泳指導の依頼を受けたり、フィンスイミングをただのフィンスイミングとしてではなく、水泳や様々なスポーツにとっても価値のあるものとして、その魅力を広めています。


高校時代の同級生への指導から始まり、第一世代、炎の体育会TV、AQUA FinDの選手や第二世代、ジュニア代表、そしてパラリンピック。まだまだ年数としては浅い指導経験かもしれませんが、大きな転機だらけで本当に濃い経験を積ませてもらってきました。

振り返ると、指導者として成長できたのは、間違いなく選手たち一人ひとりのおかげ。みんなが私を信頼してくれて、必死で食らいついてきてくれたから、私も必死で向き合い、学び、進化することができました。

これからも常に挑戦を続けながら、1人でも多くの人生を豊かに彩れる指導者であり続けたい。そう心から思っています。

フィンスイミングの未来を創る - ビジネスという挑戦

直面する現実

日本のスポーツ界が抱える課題は、フィンスイミングでは、より顕著に表れます。

海外では、フィンスイミングの選手や連盟に対して手厚い補助がある国もあり、たくさんのスポンサーが付いたり、国や自治体から報奨金や賞金が出る国も。一方、日本ではそういった支援は現実的には難しい状況です。

これは国としての違いであり、一朝一夕には変えられない。しかし、だからこそ、私たちは別の道を探る必要があるのです

私が初めに「なんか悲しいなぁ」と感じた例として印象的なのは、学生時代、朝から晩までフィンスイミングに熱心に取り組んでいた選手が、大学を卒業したと同時にパタっと業界を離れ、全く関係のない世界に行ってしまったこと。

フィンスイミングには、プロ選手という選択肢がありません。競技に関係する仕事に就くという道もほとんどない。そのため、ほとんどの選手がこの選択を強いられるのです。

他のスポーツ業界でもそれは同じ部分はあるかもしれませんが、フィンスイミング業界は特に選択肢の少なさが顕著です。

それはまだまだ整備ができていない競技環境を取り巻く様々な課題が原因であるとも考えていました。

乗り越えるべき壁

一例を挙げれば、フィンスイミングは道具を使う競技でありながら、数年前まで、その道具を手に入れることさえ困難でした。

日本製の用具がないため、基本的にはウクライナをはじめとした、海外からの個人輸入が必要。しかも、海外の作り手と直接つながりのある人と巡り会えない限り、フィンを入手することすらできない。これが長年の現実でした。

普及させたいならば、まずは興味を持ってくれた人がすぐに行動できるようにしなければ、ということで、今では弊社のオンラインショップができたことで、日本全国どこからでも誰でも24時間商品を入手できるようになりました。

確かに、個人輸入するのと比べれば価格は上がりましたし、まだまだ駆け出しのため新たな不便さにより、ご迷惑をおかけすることも。しかしこの一歩を止めずにさらに進み続けるためには、収益をきちんとあげることは避けられません。

これは他の業界では当たり前のこと。やはり市場を発展させない限り、次の成長が訪れることはなく、フィンスイミング界は、まだそういった小さなところからコツコツ変えていく必要があるのです。

ビジネスが切り開く未来の可能性

国や行政に頼れないのであれば、企業やビジネスとして市場を作り、盛り上げていくしかない。これは、スポーツに限らず、世の中のあらゆる分野で言えることです。

簡単に「スポンサーをつければいいのに」という声を聞くことも多々ありますし、私も恥ずかしながらずっとそう思っていました。しかし、企業のスポンサー活動というのはボランティアではありません。広告価値などのメリットがない限り、企業がお金を出す意味がないのです。

だからこそ、まずはフィンスイミングでお金が動く世界を作る必要がある。フィンスイミングが人気になれば、用具やレッスン、コンテンツにお金を出す人が増え、その金額が増えていけば、参入する企業も増えて注目されていく。

そうすることで競争が生まれ、より良いものが生まれ、さらなる発展につながっていく。その頃には、フィンスイミングの人気や普及も進み、スポンサーになってくれる企業も当たり前のように現れ、国や行政と組んで事業ができるようになるかもしれません。

Fin-D Inc.の挑戦 - 情熱を形にする

その火付け役として、フィンスイミングの魅力をたくさんの人に知ってほしいと願う、現代で最もフィンスイミングの沼にハマってしまった足ひれ社長こと、私だからこそできることがあるはず。

誰でもいつでもどこからでもフィンスイミング用品を購入できるオンラインショップ「Fin-D Online」。個人輸入に頼っていた環境から、誰もが気軽に始められる環境へ。

そして「Fin-D Swim School」での指導メソッドの体系化。経験と勘に頼る指導から、フィンスイミングの本質を伝える、再現性のある理論的アプローチへ。

一つひとつは小さな一歩かもしれない。でも、こうやって振り返ると、確実にフィンスイミングの未来は動き始めています。

描くビジョン - フィンスイミングが変える未来

私が目指すのは

  • 誰もが気軽に本気で競技に打ち込める環境

  • 指導者が情熱を注げる環境

  • 発展し続けられる産業としての基盤

  • フィンスイミングを通じた人材育成の場

  • 世界に誇れる日本発の水中スポーツ文化

この実現のために、三つの顔を持って戦っています。それぞれ違うことを一人三役で行っているので、三刀流というより三足の草鞋というイメージですね。

1.競技者として
今は怪我のせいでエンジョイスイマーですが、その中でできる限界に挑戦し続け、可能性を証明する。常にアップデートすることで、指導へのヒントも見つかっています。

2.指導者として
初心者から世界チャンピオンまで、一人ひとりの夢を全力でサポート。
競技成績の育成だけでなく、「人間力の向上」を最も重視しています。なぜなら、近代スポーツが持つ本質はまさにそこで、フィンスイミングは無限の可能性を秘めているから。

3.ビジネスパーソンとして
フィンスイミングの魅力や価値を世の中にもっと引き出し、産業として確立する。
素晴らしい選手や指導者がいても、継続できる環境がなければ意味がない。
だからこそ、ビジネスの視点が必要不可欠なのです。

新しい歴史を、共に。

競技者として。
指導者として。
そして、フィンスイミングの未来を創る挑戦者として。

すべての経験を、このスポーツの発展のために注ぎ込む。
それが、私の使命です。

これから、このNoteでは

  • 競技者としての挑戦と発見

  • 指導現場での喜びと課題

  • 新しい価値創造への取り組み

  • フィンスイミングが秘める可能性

  • フィンスイミングのノウハウ
    など、私の全力の軌跡をお伝えしていきます。

そして何より、このスポーツを愛する仲間とともに、新しい歴史を創っていきたいと思っています。

フィンの持つ可能性は、まだまだ無限大です。
一緒にこの挑戦の道を歩んでいけたら嬉しいです。

本日35歳を迎えた足ひれ社長の所信表明でした!

ということで、ここまで長きに渡り読んでくれてありがとうございます。
この内容良かった!よく書いたなぁ!など思っていただけたら「スキ❤️」と「フォロー✅」、「シェア♻️」、「チップ💙」で応援していただければ嬉しいです…!

また、これからも読者の皆さんに役立てるような発信をしていきたいので、「コメント欄」に質問や気になるエピソードを入力して教えてください!

それではまた次回お会いしましょう!
またね〜

フィンスイミングスペシャリスト
足ひれ社長 関野 義秀


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