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Oasisはここにある


植物図鑑

シェアメイトの宇治田峻くんが、シネ・ヌーヴォで上映される『Oasis』(2023年・大川景子監督)のトークショーに出るとのことで、彼と一緒に家を出た。彼は『The Memory Lane』という映画でぴあフィルムフェスティバル2022の審査員特別賞を受賞している映画監督でもある。道中話していたのは、映画における写真の扱いで、その中で彼は森山大道が好きだという話をした。おれは森山大道とも関係の深かった中平卓馬が好きだと言った。しゃべっている間中、頭にはずっと、中平卓馬がそれまでの自分の写真との訣別を表明した『なぜ、植物図鑑か』があって、ただ、ものを、撮る、ということを、ものを植物図鑑のように撮るということを考えていた。

そこでこの『Oasis』である。偶然だ。まるで植物図鑑のような映画ではないか(宇治田くんはともかく、おれは内容をまったく知らなかった)。映画自体も、映画で撮られている二人の行為も、まるで植物を撮るように「そのものの呈示」に徹していたと思う。なんなら登場する二人は本当に植物を撮っている。

そのものの呈示には、逆説的ながら、撮っている主体の自己開示も含まれるのだろう。色眼鏡を通してしか世界を見ることができないのであれば、その色眼鏡の色や濁りをも同時に示すことにより、その分を差し引くことで、もの自体を呈示することができるという考えである。映画に映っている二人にとってはこの映画の存在自体が、そしてこの映画にとっては録音や編集風景をも映画として提示してしまうというところが自己開示となる。

オアシス

都会にオアシスはない、かといって田園風景に見出そうとしても見つからない。いつだって細部をただ見ようとするものにだけ、オアシスが出来する。映画のシークエンスの重なりと、川と首都高の重なりに類似を見出した大川景子監督にとってはこの映画はオアシスだったのかもしれない、と思う。ところでオアシスにいるひとはそこがオアシスだということに気がつくことができないということがある。ここがオアシスだと自覚しているひとも、生きる自分のほかに観察する自分を設定しているからそこがオアシスであると気づくことができるのであるし、二人の生活がオアシスであるということはこの映画の存在に依っている。

オアシスは、オアシスとオアシスでない部分との間の境界、平面的な疎隔によって支えられている。要はオアシスは他者の排除によって成り立っている。それは、この映画には、登場する二人以外に人物が関わってこないというところにも表れている。録音や編集をするひとも出てくるが、彼女ら彼らの存在は平面上での関わりをもたらしはしない。むしろモンタージュ的に並べられたそれは垂直の重なりあいだ。オアシスをオアシスとして保存しておきながら、多次元性を確保しようとした試みはとてもおもしろいと思う。でも、もし、登場人物二人と録音者が出会っていたらどうなっただろう、というのは気になる。たとえば道ですれ違う程度の出会いであれば、それぞれの軸の独立性も確保されるだろう。

oasisの語源は「住む」ことであるということを思い出している。住めば都とはよく言うが、そこに安住すること、くつろぐことができるということがそこをオアシスに変える。場所の問題ではない、態度であり行動であり、その積み重ねとしての習慣(ハビトゥス)である。

さて、オアシスといえば、近頃流行りの丁寧な生活というものが想起されるが、それ自体が目的と化した「丁寧な生活」などというものは欺瞞だ。誰に秋波を送っているのやら、あんなのは嘘つきのすることだ。一所懸命に生活すること以上に尊いことはない。洗濯をする、洗濯物をたたむ、買い物に行く、料理をする、食べる、食器を洗う、壊れものの修理をする、整理整頓をする、掃除をする、ごみを捨てる、そして寝る、起きる。この繰り返しを必死にやること以外に生活はないよ、オアシスもまたそうだ。丁寧な生活者たちは自意識を折り返すのが早すぎるんだ。ものを傷つけないように使うことが丁寧さだと勘違いしている。むしろ、「なんらかの作用が失われないかぎりにおいて味わい尽くす行為」(藤原辰史『分解の哲学』)こそが愛着であり、ものを傷つけずには生きることができないおれたちが、ものを大切にするということであると思う。

振り返っておれの生活はどうか。自分の生活にオアシスを見出すことができるだろうか。

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