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2024年のテーマ:「  」

抱負、というと荷が重い。抱負は抱き、負うと書くが、もうすでに負債のように重たいもののようだ。新年を始めるというのに、最初にそんな重いものを持ってどうする。もっとlightにいこう。ということで、敢えて抱負という言葉は使わず、テーマと言うことにしよう。themeという語は、ギリシャ語の「置かれたもの」という語源を持つという。置かれたもの、いいじゃないか。肩に担がされるよりは横にちょこんと置いてある方がこちらも気が楽だ。


2023年:末端を使う

2023年も一応テーマは設定していた。そのなかのひとつに末端を使うということを挙げていた。末端とは、手や指、足のことで、身体を意識的に使うということに重きを置いていたのだった。ここでPDCAを回そうとは思わないが、このテーマを設定したことによって、開かれた境地があったと思う。たとえばCajón。昨年の2月ごろに購入して、それ以来身体を解きほぐすのによく叩いていた。友人とセッションもしたし、楽曲や映画音楽に演奏音を提供することもあった。自室にいつも置いてあって、まさに「置かれたもの」の名にふさわしいつつましやかさでわたしの2023年に伴走してくれたと思う。


2024年

さて、2024年である。今年も、身体感覚に鋭敏でありたいという思いは変わらない。瞑想の習慣は続けていきたいし、身体への意識もなるべく明敏でありたい。わたしにとって、具体的な身体の用い方を考えるときにしばしば参考にしているのが桜井章一さんである。彼のいう言葉に則りながら今年の身体の捌き方を方向づけておきたい。

まずは、軸の意識である。手元にある桜井章一さんの本から何節か引用する。

 だが、軸は必ずしもカラダの真ん中にあるわけではない。
 なぜなら軸は本来一つだけでなく、たくさんあってそれがいつも360度回転しているといったものだからだ。そんな軸があれば、どんな形を取ろうと、どのような動きをしようとカラダの中心が定まる。
 もっともこの中心は物理的な中心とは違う。中心は動きの変化とともに絶え間なく変わる。絶えず変わるということは、カラダは多様性に満ちているということにほかならない。

桜井章一『体を整える』

 落ち着いた大人を見ると、あたかも軸が一本しっかり通っているかのように感じられる。だが、体を通る軸が一本だけなのは不自然なことだ。野生の生き物たちを見ると、それがよくわかる。猿でも蛇でも鳥でも、彼らは軸をたくさん持っていて、それを瞬間、瞬間、あらゆる角度へ柔軟に動かしている。

桜井章一『「自然体」がいちばん強い』

私にとって軸とは、しなやかに変化していくものである。竹のように右に左にたわむことができるものである。さらにいえば、その軸は360度自在に回転するような縦横無尽さがあると理想だ。360度回転するということは、軸が無数にあるということでもある。

桜井章一『雀鬼語録』

 木は、幹がしっかりしているから立っているのではない。大地の中にしっかりと根を張っているから立っていられる。つまり、木の軸は幹ではなく、大地の中にあるのだ。軸というと、一本まっすぐ伸びていくものをイメージするが、本当はそうではない。
 軸というものには形もなければサイズもない。軸はどんどんと広がっていく。そしてその広がりが、無限の可能性を生み出すのである。

桜井章一『負けない技術』


出版時期もバラバラな4冊の本から引いたが、ここに共通しているのは、「軸とはひとつではないということ」「絶えず変化しているということ」「回転するような柔軟さがあるということ」である。軸というと一本まっすぐ伸びているものを想像してしまいがちだし、軸を持つと言ったときにはそのイメージで確固とした像を結んでしまいがちだけれども、それでは軸を捉え損なっている。少なくとも桜井章一の述べる自然な軸とは異なっている。軸は絶えず回転しながら無数に乱立しており、絶えず変化している。そういった軸の意識を持ってこの一年を過ごしたいと思う。


円環

次に、上記とも関連するが、円環の意識を持つことを挙げたい。軸とは回転するものということであったが、回転し、巡るもの、循環する構造の意識を持っていたい。これは主に昨年読んだ清水高志さんの『空海論/仏教論』に依っている。二項関係に第三項を導入し、循環(構造)を閉じることで、相依性のもとに世界を体験するということである。読んでくれているひとのなかには「?」のひともいるだろう。卑近な例に敷衍しよう。

わたしたちは、生き物を食べて生きている(二者関係)。だが、わたしたちはただ食べるだけではない。死んだらわたしたちもまた他種の糧になるし、その他種もまた死んで他の種を養う(三者関係)。そのように捉えると、鶏が先か卵が先かといった話になる、つまり、これらは相互依存的に同時に存在していると言える(相依性)。そうしてわたしたちは円環を生きている(循環構造)。だから、ここに安住することができる。

このような世界の経験は、知的把握に終わっては意味がない。実際に他者との関係のなかに身を置くとは、生活のレベルでは、たとえば食事という営みで体験される。土井善治さんの文章はそのように読むことができる。引用する。

すべての生命は生きていくために、他の生命に依存します。そこに生態系という……宇宙のような……循環することで持続する命の輪があるのです。人間は料理してきれいに整える。すなわち器を選び、取り合わせ、盛りつけるという一連の行為は、人間が自然をもてなしているのです。

土井善治『味つけはせんでええんです』

ここに「依存」「循環」といった言葉が出てくるが、それは上記の構造のことと同じように捉えることができると思う。そしてまたこれは料理だけに限った話ではない。あらゆるものに拡げて考えることができるテーマだと思う。わたしは円環、輪、循環、回転の構造を意識してこの一年を過ごしたい。


太極拳

上記の意識を、具体的な身体実践として体感することができる契機として、わたしは今年、太極拳をしたいと思う。そして、そのきっかけを与えてくれたのは山口小夜子さんの『小夜子の魅力学。』(そして貴重なこの本を貸してくれた紫闇ちゃん)である。この本では山口小夜子さんも初めて太極拳をして感動したという話が出てくるが、わたしもまた大学で太極拳の授業を受けたときに、先生の身体捌きに衝撃を受けたのを今でもよく覚えている。当時の感想文を一部引用する。

先生の演舞を見て、重厚感のあるというか、濃密なというか、以上でも以下でもないような、満ち満ちた動きに、圧倒される思いがしました。ただ体がそこにある、先生がそこにいる、というだけなのですが、ぴったり体がそこにある、ということが何かとても新鮮なものとして私には感じられたのです。この「ぴったり」というのは、身体と、その意識が重なっているということ、身体が十全に意識されている、ということなのでしょうか。いずれにせよ、自分が自分のからだである、という「当たり前」のことが自分には全然できていないのだと感じました。授業を受け続ける中で、何度も自分の体との不和を感じずには入られませんでした。そして今までは不和さえも自覚していなかったということを思い知りました。

太極拳の感想をまとめたメモより

書いてある通りである。当時は素晴らしい経験をした。そしてその時の感動が再燃しつつある今、当時の先生に連絡を取って、太極拳の学び方やおすすめの教室等を教わりたいと思っている。これが今年のもうひとつのテーマである。

まとめ

身体的なもの、東洋的なもの、これが今年もわたしの多くを占めるような予感がある。そして、ここに名を挙げたひと、特に桜井章一と土井善治、山口小夜子という三名は、麻雀、料理、モデル、とそれぞれフィールドは違うながらも、自然というものとの付き合い方が極めて秀でている方々である。わたしが生きるうえで学ぶことが本当に大きい。そして実は、今年中にこの三名を中心に据えたエッセイを書き上げたいと思っている。これもまた4つ目のテーマとして置いておきたい。

メモのようにしてnoteを書くつもりが、既に3,000字を数えてしまった。あまりに貪欲に多くを書きすぎるのは、「触れる」というよりは「つかみ」にいっているようで、桜井章一さんなら肝心なところを逃してしまうよ、と注意しそうなところである。そろそろ擱筆すべきだろう。よき一年を。

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