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狩猟免許合宿12,13日目──曾遊


12日目

ラッキーピエロ

昨日から函館で過ごしている。二日酔いのせいか睡眠が浅いが、チェックアウト時刻までにはホステルを出なければならない。

10時には宿の近くにあるラッキーピエロのベイエリア本店が開店するので店の前で待機。ラッキーピエロとは北海道の道南で展開しているハンバーガー屋である。一番の人気メニューである「チャイニーズチキンバーガー」のセットを注文した。バーガーに、グラタン風味のソースがかかったポテトと、ウーロン茶がついて960円。チャイニーズチキンバーガーには甘辛いソースがかかった鶏の揚げ物が挟まれてある。注文を受けてから揚げ始めるようで、出来立ての熱くジューシーな鶏肉は食べ応えがある。二日酔いの空腹に沁みること甚だしい。

厚沢部町へ

夕方には厚沢部町に戻る。函館バスセンターを15時に発って、約2時間かけて「鶉」に向かう。このときは気づいていなかったが、同じバスには、今日から新たに入室するOさんも乗っていた。

今日はふくちゃんの最終日で、Oさんの初日である。Oさんは歳はわたしより10歳近く年上で、普段は新聞配達の仕事をしているという。出発直前に自宅が盗難に遭い、到着が遅くなったそうだ。遅れたことの反省として頭を丸めてきたという。自分で刈ったらしいが、ところどころ毛が長かったり短かったりとまばらで、なんとなく愛嬌を感じる。面白いひとだ。残りの数日間で仲良くなれたらうれしいと思う。

そう、気づけばわたしの滞在も12日を数えていて、残すところあと4日となった。ここの生活にもだいぶ慣れてしまっていて、自分の身体のリズムも変わってきたと感じる(習慣を身につけるにはだいたい2週間くらいかかる、と聞いたことがある)。具体的には、函館の街を歩いているとき、触れてくる街の空気感が肌にそぐわないように思われたのである。久々に知人未満の「他人」が多い環境に身を置いて、ひとに酔ったのかもしれない。

13日目

兎角に人の世は住みにくい

今日は朝から雨が吹き荒んでいる。低気圧のせいもあってか体が重く、朝にふくちゃんを見送ってからもう一度眠ってしまった。

夏目漱石の草枕を読む。冒頭の一節は何度読んでも美事である。

 山路を登りながら、こう考えた。
 智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。
 住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。
 人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。矢張り向う三軒両隣りにちらちらする唯の人である。唯の人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりも猶住みにくかろう。

夏目漱石『草枕』

人の世が住みにくい、というのはわたしが大阪で感じていたことであった。

このnoteで『「ひと」に倦む』、という見出しで書いているが、わたしは、「ひと」の世で息が詰まる思いをしていたのだった(ここで「ひと」と訳される「ダスマン(Das Man)」は「世人」とも訳される)。

それで「住みにくさが高じ」て、バイクの免許合宿を申し込んで東北の田舎に移動したり、狩猟免許の勉強をするために北海道の厚沢部町まで来たりしている。

だが、どこへ越してもこの「問題」が解決することはない。問題は解かれるべきものではなく、創造されるべきものだ。わたしはこの「問題」を解決しようとすべきではない。むしろ、異なる問題を創造するべきである。

少し乱暴だが、今読んでいる本から引用する。

そもそも進化の過程で、眼がつくりだされるとはどういうことか。ドゥルーズ(ベルクソン)は、生命とは、問題を提起する能力と考える。眼をつくりだす生命の働きとは、光に対応するための問題の創造のことだというのである。そして、その問題に答えるために、生命はいろいろなかたちを模索する。できあがった眼は、問題に対するひとつの解答であるだろう。生命としての有機体とは、「問題の解答」である。しかし生きていくとは、あくまでも光を求めるという問題を提起しつづけることである。

檜垣立哉『ドゥルーズ:解けない問いを生きる』

この世界に何一つ同じものがなく、つまりそれぞれが固有の問題の引き受け方であるために、それぞれの葉は、それぞれが何かの葉という理念=問題を、積極的に担うのである。誰もが差異をもつ異なった個人であるがゆえに、そのひとりひとりの個人が、われわれとは何かという理念をつくりあげるのである。

同書

「どこへ越しても住みにくいと悟った時」、わたしは問題創造の一歩を踏み出す。ひとりとして同じ「わたし」などいない。だが紛れもなくわたしもひとりのひとである。その奇形たるわたしが奇形ゆえに、新たな問題を提起する。そのとき「詩が生れて、画が出来る」。

どこに行ってもひとはいる。「人でなしの国」へ通ずる道は、わたしもひとりのひとである以上、初めから閉ざされている。そんなところではひとであるわたしは生きていくことができない。だから、ここで「ひと」として問題を創造することだ。「眼」というひとつの問題の解答に安住することもなく、「光を求めるという問題を提起しつづける」ことだ。


解答→解凍

今晩は、農作業がないというAさんが料理を作ってくれる。鹿肉をミンチにしてコロッケを拵えてくれるそうだ。かなりたくさん残っている鹿肉を解凍している。

今宿舎にいるのは調理中のAさんと、風邪気味で寝ているHくん(大阪出身の学生である)、それから、ウズベキスタン語を勉強している小野D、わたしである。今日は本当に雨がよく降っていて、おかげで気温は低く過ごしやすいのだが、出かける気にもなれない(晴れていても出かけるところといえば、近くのスーパーくらいなものだが)。遅々とした時間の流れに身を浸している。


宿舎での生活

バイク免許合宿との比較をしたいと思う。バイク免許合宿のときと今回との一番大きな違いは、生活、特に寝食を共にするか否かにあると感じる。バイク免許のときはそれぞれの個室があって、寝るときは皆が別々だった。だからこそ起きている時間は友人との時間を有意義に過ごそうという内圧が高まったのだと思うが、狩猟免許の場合はそうはいかない。

今回は皆で同じ屋根の下、場合によっては同じ部屋で寝る。プライベートはほぼ皆無である。強いて挙げるならシャワー、トイレ、煙草くらいがひとりの時間であって、それ以外は常にひとの気配と同居することになる。だから、寝食以外はけっこうそれぞれが各々にしたいことをしている。農作業以外の時間、あるひとは温泉に出かけ、あるひとは電話をし、あるひとは本を読んではキーボードを叩いている(わたしである)。

努めて仲良くしなくても、生活の基盤が地続きなのである。この関心の抱き方あるいは無関心さは、シェアハウスのそれに近いと感じる。わたしが大阪で住んでいるシェアハウスでは、個室はあるものの、リビングやキッチン、トイレ、風呂は共用なので、生活の根っこを同じくしている。だから、集まって食べる夕食のとき以外は、各々が好きに過ごしている。宿舎での生活はそれに近い。

バイク免許合宿のときのように、時間がないという焦りがない。だから、誰かが去っていくときも、多分この先会うことはないのになんだかすぐに会えるような気がしてしまう。誰かが来るときもそうだ。最初は少し真新しさを感じてコミュニケーションを取るけれども、一晩寝たらぬるりと生活に溶け込んでいく。焦りがない。もっといえば、「時間」がない。流れていない。これは農村の時間だろうか。わからない。バイク免許合宿のときは、分厚い「今」を感じていたが、今はどちらかというと、時間の始まりと終わりが感じられないというのが正しく思われる。ずっと前からここでこうしていたような気がするし、もうこの先もずっとこうしているような気がする。不思議な時間感覚だ。もう4日後には東京にいるはずなのに。

さて、少し雨が上がって来たのでスーパーに行こう。こちらのスーパーは土日祝が休みだから今日買い溜めをしておかないといけないのだ。

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葦田不見
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