属人化でいいやん
属人化という言葉を耳にするようになって久しい。「属人化」とは、特定のひとしか当該作業について把握していない状態を指す言葉だ。作業手順のような知見が人に属している、ということである。ビジネスの文脈ではしばしばネガティブな意味づけがなされており、これを解消すべきだとか、この状態を脱却したいだとか、そんなふうに使われる。
こういうスローガンを反復しているひとというのは、必ずしも自分の頭で物事を考えておらず、しばしば誰かが言っていたというだけの理由でこういった言葉を繰り返しているものだろうと思うが、それだけにいっそう、この言葉の選好に、そのひとの無意識が表れやすいと言えるはずだ。つまりわたしが問いたいのは、あえて属人化を忌避しようとするひとたちがほんとうに恐れているものはなんだろうか、ということである。
まじでこの属人化の状況がやばい、って思っているひとなんてどれだけいるのだろうか。というか、いたら既に必死こいて血涙の滲んだマニュアルでもなんでも作っているはずで、属人化がやばい、と言ってそれらしさを演出しているうちは、ただ流行を追っているに過ぎない。
属人化の解消なんて人生に比べたらどうでもよいはずだ。必死こいて属人化の解消に努めるのも、それが稼ぎや出世に結びつく限りでのことに過ぎない。属人化解消!属人化解消!標準化!標準化!と大声で唱えた数を上司がExcelでカウントしているわけもなく、おそらくはある種の自己催眠なのだろう。あなたはなにがこわいの。
属人化の反対語は標準化である。作業を細分化して、それをマニュアル化する。難しい作業はなるべくマニュアルから排除し、必要にして十分なだけの作業を誰もができるようにする。そうして標準が生まれると、「個性」と呼ばれていたものはもはや歓迎されることはなく、外れ値として捉えられるようになる。
個性とは、着たり脱いだりできるようなものではない。むしろ、衣服を着ても脱いでも消えることのないそのひとの奇形、傷跡のようなものだ。生きてきたなかで傷つき、そしてこう生きることしかできないという有限性でもある。生きることとは、この奇形性を引き受け、それに応えていくことであろう。誰もがそれぞれに奇形でしかありえないはずなのだが、標準化を求める人間はその奇形を引き受け、運命と向き合うということをこそ、恐れているのではないか、しかしその一方で、積み上げてきたものを手放したくないというけち臭さをも発揮しているのではないか、と思うわけである。そのような吝嗇家にあっては、自分が我慢しているのだから他のひとも我慢すべきだ、と考えているうちに、自らが我慢していることさえ忘れてしまって、つまりは飼い慣らされてしまって、その結果他責だけが残るようになるのだろう。
属人化を脱却すること=標準化を推し進めることには、暗黙知を明るみに出すということが付随している。目に見えるもの、わかるもの、言語化可能なもの、それだけを大事にし、そしてその態度を「みんな」で共有しようとする風向き。誰もが自分の暗黙知やら自分だけのノウハウを差しだしてそれをみんなで共有するというユートピア志向。反共の余波というのは今日においても小さくはないが、個人の自由を謳いながら自己責任論を振りかざしている人間たちも、ノウハウを共同所有することにはやぶさかではないらしい。……いいや嘘だ。ほんとうのところはやぶさかだから、標準化なんてのは一直線に進むはずがない。口で言っているだけになる。
だから、態度と本懐とのあいだの齟齬こそが、そのビジネスパーソンの意義だ。彼女ら彼らは標準化を恐れつつ求めている。属人化を避けつつ願っている。要は、ただの、ひとである。「ひと」は、属人化と標準化との間を、つまりは堕落した唯一性と普遍性の間を揺蕩うことしかできない。自分らしさにフェティシズム的にしがみつくのか、おのれの特異性を削ぎ落としてひとの波に呑まれるのか、その間のグラデーションとしてしか生きることができない。
とはいえ、である。今日、標準化への傾きがあるからこそ、属人的であることが大事になってくるのだろう。逆張りではない。平均値=存在しないはずの他者へ目配せしつつ、そこからの差異として己を捉えるのではなく、自分にはこれしかできないという諦めのようなところから始まる属人性だ。人間というまだ踏破されつくしていない広大な地において、どこまで歩みを進めることができたか、という標を立てておくことには意味があるように思われる。つまりマニュアルではなく、自分に差し向けられているこの問いに対して、自分はこのように応えた、という一回性の記録だ。
そしてその応答がうまくいったとき、誰かにその道はいいものだと教えたくなることがある。そのときはじめて、利他としてのマニュアルが生まれてくるはずだ。manualの語源には「手」がある。マニュアルとは、手づから伝授される方法である。ほんとうにいいものをほんとうに広めたいという思いからこそマニュアルは生まれるはずだ。キリスト教における4人の福音書記者も、ブッダの言葉を伝えた弟子たちも、そのようにして覚者の言葉を伝えた。いかに、今日義務的に求められるマニュアルの作成から隔たった態度か、と思う。
利他としてのマニュアル、もうそれはThe Bookといっちゃってもいいだろうか。それを読むには、読者は極めて属人的な経験を動員しないといけないはずだ。この類のマニュアルは標準化の結果として生まれたものなのに、個々人の奇形性を呼び起こさずにはいない。
そうだ、わたしたちは聖典を読むようにしてマニュアルを読み、聖典を書くようにしてマニュアルを書こうとすべきだ。それが作品である。