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「丁寧な議論」は時代と逆行している

「丁寧な暮らし」の良さが見直されている中、「丁寧な議論」に関しては、これから見直されるのでしょうか?

現在「忘れられた日本人」という本を読んでいるのですが、この本の中では昔ながらの集落における、取り決めの方法が記録されています。

この本では昭和14年〜日本旅をしている著者が対馬の集落での取り決め方法についてまとめいる章があります。

一体どのような決め方かというと、以下のような流れとなっています。

取り決める議題発生

集落の代表が集まる

各代表が議題を持ち帰る

自分たちの集落の人と話し合う

結果をまた村の代表で話し合う

様々な事例踏まえて代表が決断

議題に対しては、その議題と似た事例をどんどん話していきます。

例えば、村に橋を建てたい場合、
隣の村で同じ事例があれば、それを建てた後にその村がどうなったかを知ってる限り話します。

知っている限りのことをどんどん話すので、脱線することも必然的に多くなります。

当然この決め方、「様々な事例を伝える」「脱線する」という特性上、中々決まらないことが多いようで、同じ議題に対して「何度も持ち帰る」ということが発生します。

過去の日本が全国的にそのような取り決めの方法だったかは不明です。しかし少なくとも、西日本では同じような傾向があったと書かれています。

そんな非効率な決め方ですが、
メリットが以下2点ほどあります。
「一人一人に責任が生まれる」
「事例から考えられる」

個々の集落で話し合うので、決定まで時間がかかる代わりに、構成員には「発言しなければならない責任」が生まれます。
これなら、「私の声は聞かれない」という問題は発生しにくでしょう。

また、似たような事例から考えるので、「細部にまで思考を広げられる」といつメリットがあります。
ある意味、現代の「多様性」を考慮した議論の方法ともいえます。

私は現在、介護関連の仕事をしています。
仕事の知識がある中で国会中継の議論を見ていると、与党側の発言がどうも的を得ていないことが多いんですね。

もちろん、国側が全ての国民の声を聞くのは不可能です。
この本の事例のように、各国民からの声を拾っていたら、おそらく日本は石器時代のようになってしまうでしょう。

しかしながら、この「昔の村の議論方法」は、時代と逆行しつつも、「多様性」を先取りしているような、何かヒントとなるものが含まれているのではないかと思います。


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