悲しくてやりきれないへと至る道②
前回のおさらい
1965年、大学生の間では、民謡や海外で流行りのフォーク・ソングをコピーして歌う、カレッジ・フォークが流行っていた。
京都の龍谷大学に通う学生、加藤和彦は、雑誌の読者投稿欄で「フォーク・コーラス」を作ろうと呼びかける。
集まったのはきたやまおさむ・平沼義男・芦田雅喜・井村幹夫。
5人で活動を開始した第一次ザ・フォーク・クルセイダーズだったけれど、井村は早々に抜けてしまう。
残った4人はコンサートやラジオに出演し、精力的に活動していた。
とはいえ、多くのカレッジ・フォーク・グループと同じように、あくまで大学生活を謳歌する目的で音楽活動を行っていた。
プロになるつもりなんてさらさらなかった。
'65~'67年の2年間を音楽活動に費やした大学生たちは、
芦田の海外留学をきっかけに、ザ・フォーク・クルセイダーズの解散を意識し始めた。
そして解散記念の自主制作盤を完成させた1967年10月。
彼らは宣言通り、解散コンサートを行う。
唯一のアルバム ~ハレンチ・ザ・フォーク・クルセイダーズ~
まずは完成した、ハレンチ・ザ・フォーク・クルセイダーズの収録曲を見てみよう。
彼らが学生生活の集大成として完成させたアルバムは、やはり、多くのカレッジ・フォーク・グループと似た構成で完成した。
ザ・ブロードサイド・フォーのアルバムが洋楽・海外民謡のカバーで構成されていると書いたのを憶えているだろうか。
それを踏まえると、この「ハレンチ・ザ・フォーク。クルセイダーズ」も、カレッジ・フォークの流れにあることがわかる。
日本民謡やアメリカ民謡、メキシコにキューバ、海外の流行歌、「ひょっこりひょうたん島」まで。
と思いきや、歌詞の途中に替え歌を入れたり、わりと自由だ。
本当に大学生活の延長上に、このアルバムは位置している。
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一応、閑話として何曲か見てみると、
「ディンクの歌」は、
ジョン・ロマックスという民俗音楽学者が、アフリカ系アメリカ人のディンクと呼ばれる女性が歌っているのを1909年に採集したもの。
「グァンタナメラ」は、
キューバで歌われていたものであり、
ピート・シーガーというアメリカのフォークシンガーがスペイン語で歌っている。フォークルもスペイン語で歌っている。
国内外の民謡=フォーク・ソングをコピーして歌う。
これこそが大学生の間で流行っていたカレッジ・フォークなのであり、
作詞作曲にプロが付いていたマイク眞木の「バラが咲いた」は「和製フォーク第一号」と言われはすれど、特殊な立ち位置だということがわかる。
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レコードを作ると言ったってタダではない。
アマチュア学生グループが、コンサートに出演したお金で、果たして製作費を賄えるものだろうか。
――いや、残念ながら賄うことはできなかったようだ。
今回は解散から時間を巻き戻し、アルバムを完成させる前。
1967年9月からもう一度、彼らを見ていこうと思う。
借金をして作ったレコードなのに……
解散を目前とした1967年9月。
レコーディングを終えた彼らは、雑誌「MEN'S CLUB」でレコードの購入者を募ることにした。
その雑誌は2年前、加藤和彦がメンバー募集に使った雑誌の広告欄と同じだった。
10月号に広告を出せば、レコードが完成する10月に合わせられる。
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製作費は、
プレス代も含めて35万ほどと加藤は回想している。
レコードは300枚刷り(加藤は200枚と言っているが……)、値段は1枚1200円。
これを全部売り切ると300*1200で36万になる。
200枚では元も取れないから300枚が真実だろう。
300枚売り切って、とんとんである。
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借金が返せて10万ほど浮く計算ならば、記念のアルバムとしては上々、上々。
大卒の初任給が25,000円の時代。
4か月分の給料と考えれば、青春の集大成として何も言うことはない。
そのころ、ラジオ関西の番組「ミッドナイトフォーク」が、最終回を迎えようとしていた。
マイナー放送局と言えど、地元の学生の間から番組存続の署名が集まるぐらいには、熱心なリスナーが居た番組だった。
フォークルの面々はなんと、その最終回にゲストとして出演し、生演奏を披露する。そして、まだレコード化する前の音源から「帰って来たヨッパライ」を流してもらった。
さらに10月2日に放送開始され、現代にも復活した毎日放送「MBS ヤングタウン」の第一回放送にもゲストとして出演。
アルバムの宣伝としては、これ以上ないお膳立てである。
卒業記念のアマチュアレコードはきっと完売御礼、借金は返せるし、なんなら追加刷りをして小遣いにもなる……。
ところが。
きたやまの自宅に300枚のレコードが送られてきても、購入者は少なかった。
まじか。まずいぞ。
その数せいぜい100人ほど。
ラジオでの反響は、予想以上に少なかったのだった。
100*1200=12万円。
これでは実父からの借金が返せない。
「遊んでばかりいないで勉強しろ」と怒られていたきたやまだから、借金が返せないとなれば、何を言われるか分かったものじゃない。
「京都にフォークルあり」と言われるぐらいには知名度があったはずなのに、いざレコードを出してみるとこんなもんなのか。
リーダーの加藤はもうコックさんになるための就活に舵を取り始め、平沼も解散と決めたなら、もうあとは我関せず状態。
時期は冬も目前、11月。
なんとか借金分だけは売上げてもらわねば。
このまま懐まで冬になってしまっては困ってしまう。
だというのにグループはもう解散した。今からこのレコードを、どうやって売り込めばいいというのだ。
きたやまは、自宅に山と積まれた準不良在庫の「ハレンチ・ザ・フォーク・クルセイダーズ」を前に、頭を抱えた。
ラジオの影響、侮るなかれ ~ラジオ関西「若さでアタック!」~
きたやまが頭を抱えて唸っているころ、ラジオ関西の電話は鳴りっぱなしだった。
内容はほとんど一貫している。
「帰って来たヨッパライを流してくれ」
ラジオ関西では「ミッドナイトフォーク」が終わったあと、
新番組「若さでアタック!」が始まっていた。
この第1回放送は、フォークルが「ミッドナイトフォーク」最終回に出演したときの音源を再放送したのだが、それ以降、電話が鳴りやまない。
テープを早回しした奇妙な演奏と声。
コメディな歌詞。
アマチュアらしい、そこかしこにパロディが織り込まれた楽曲。
今まで聞いてきたどのフォーク・ソングとも違うスタイルの楽曲に、リスナーはカルチャーショックを受けていた。
こんなフォーク・ソングがあるのか。
コーラスはどこ行った、原曲はなんだ。
まさかオリジナルか。
同放送局の番組「電話リクエスト」でも放送されると連日リクエストがかかり続ける事態に発展。
それに、「電話リクエスト」は比較的早い時間帯の番組だったこともあり、深夜まで起きていなければ聞けなかったミッドナイトフォークとは違って、熱心なフォーク・ソング・ファン以外も歌を耳にする機会が増えた。
個人にではなく、世帯に歌が届けられた。
放送局は近畿地方のみで聴けるものだったが、その近畿地方では、ブームになっていった。
閑話:帰って来たヨッパライという曲について
この曲が全国的なヒットとなる解説をする前に、歌について語らせてくれ。
帰ってきたヨッパライはテープを早回しする録音方法を採っているから、実はコンサートでは一度も演奏されていなかった。
だから、レコードが初出しの曲だ。
歌詞は物語調で、
飲酒運転によって事故死した男が天国に行き、
天国でも酒を飲んでいたら、神様に追い出されて現世によみがえる。
歌詞から内容から、バカボンみたいな徹底したコメディ調。
田舎訛りの「おら」。
なぜか関西弁の「神様」(声はきたやまおさむ)。
「おら」の声は早回しでピッチが高い声。
「神様」は等速の、普通の声。
さらにベートーヴェンだのビートルズだの天国と地獄だの「○○よいとこ一度はおいで」だの、どこかで聞いたメロディや言葉がいろいろ混ぜ込まれている。
悪ふざけと言ってもいいぐらい遊んでいる。
クレジットには、
作曲、加藤和彦。
作詞、フォーク・パロディ・ギャング。
民謡でも海外の流行歌でもない。
「帰って来たヨッパライ」は、素人が作詞作曲した曲だった。
このフォーク・パロディ・ギャングという変名には、
ザ・フォーク・クルセイダーズのメンバーのほかにもう一人の男が隠れている。
松山猛。
松山は当時社会人だったけれど、加藤が付き合っていた女性のご近所さんであり、その彼女を通じて知り合った。
詩やデザインに造詣の深い男であり、加藤の彼女の発案で一曲作ることになったのだ。
ただ聴くだけでもインパクトのある曲だけれど、飲酒運転、そして交通事故という内容が、当時の世相に合致していたことを忘れてはいけない。
「交通戦争」という言葉がある。
ご存じの方も、もちろん、そうでない方もいると思う。ちなみに、わたしは学校の授業でこの言葉を習った記憶はない。だから、一般的な知識としては、ズレた知識なのだろう。
Wikiにリンクを張ったので詳しくはそちらを参照していただきたいが、
早い話が交通事故の死亡者数が日清戦争の戦死者を上回る勢いだった、ということだ。
フォークルがレコードを出した1967年には、交通戦争時代の代表曲ともいうべき「チコタン」(リンク:Youtube)も作られている。
検索してはいけない言葉として取り上げられている「チコタン」は、今の時代も知っている人が多いかもしれない。
”ダンプに轢かれてチコタン死んだ”という歌詞からもわかる通り、当時、交通事故というのは大きな問題だった。
この時代を機に、企業では社用車を管理する人を決め、講習を受けなければならなくなったというのだから、日本の骨組みが変わるほどの問題として取り上げられていたのだ。
以上、閑話でした。
火の粉は東京に
解散した後ではあるけれど、近畿地方で静かなブームを巻き起こしていたフォークル。
このブームが一過性、一地方のものに成り下がらなかったのは、東京にフォークルの名前が届いたからだ。
ここで一時的に登場人物が変わり、舞台は東京に移る。
時は変わらず、1967年11月のことである。
「パシフィック音楽出版」という会社があった。
全国区のラジオ放送局であるニッポン放送を親会社に持つこの会社は、1966年に設立されたばかりの会社だった。
そこの社員で、若干24歳だった朝妻一郎のもとに、木崎義二という男が訪ねてきた。
木崎はラジオ関西「電話リクエスト」でDJを務めており、かのブームを身に染みて良く分かっている人物で、朝妻とは、朝妻の上司を通じて親交があった。
木崎は朝妻に、
「こんな面白い音楽があるんだけど」
と、一枚のレコードと曲を指し示す。
勧められた曲を聞いて朝妻は、「チップマンクスみたいだ」と、その奇妙な楽曲に興味を惹かれた。
木崎が持ってきたレコードこそ、話題の「ハレンチ・ザ・フォーク・クルセイダーズ」であり、勧めた曲というのが、帰って来たヨッパライだった。
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チップマンクスとは
正しくは「アルビンとチップマンクス」。
1958年にコミックソングとして発売された歌から派生したアメリカのアニメーション作品。
日本では1964年に「わんぱく3人組」としてアニメが放送されている。
3匹の歌うシマリスたちのアニメで、セリフや楽曲がテープの早回しによるピッチが高いものになっている。
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会社のためにキラーヒットの曲に飢えていた朝妻は、「この曲の権利はどうなっているんですか」と尋ねた。
木崎は、
「これは京都のアマチュアグループが作った曲で、レコードも自費出版したようだ。契約取っちゃいなよ」
と朝妻に勧める。
こんなに面白い曲が商業的に手を付けられていないだと。
近畿ではすでにリクエストが鳴りやまないと木崎は言う。
こうしてはおられない。
絶対に他の会社も動く。
実際このとき、東京のレコード会社や音楽出版会社が何社か動いていたようだ。
朝妻はすぐに上司の高崎一郎に了承を得て、伝手をたどり、この曲の権利を管理している人に連絡を取った。
この時、権利を管理していた人というのが、大阪でフォーク・シンガーたちのライブを主催したりブッキングをしていた、アートプロモーションの秦政明だった。
秦はこの年、フォークルとも一緒にコンサートをしたことがある高石友也と一緒に「高石音楽事務所」を設立していて、そこではフォークルのマネジメントも行っていたのだった。
さっそく大阪に向かい、秦と面会した朝妻は、
「どうにかこの曲の原盤権と著作権を譲ってくれないか」と頼み込んだ。
しかし秦は、
「音楽出版会社を立ち上げようと思っているから著作権は渡せない」と言う。
なるほど音楽出版会社を立ち上げるとなればお金がいる。
レコードの出版や、アーティストに曲を作ってもらう資金が必要だからだ。
帰って来たヨッパライの人気をよく分かっている大阪の会社ともなれば、権利を手放すわけがない。
やはりだめか、と朝妻が肩を落としかけたところに、秦は言った。
パシフィック音楽出版はまだ出来立ての会社とは言え、親会社にニッポン放送を持つ。
フォークルを日本という舞台に立たせるにはやはり力がいる。
好意的な見方をすれば、秦はフォークルの、いや、フォーク・ソングの未来のために、朝妻に権利の一部を譲ったのだろう。
かくして「帰って来たヨッパライ」の権利は、
著作権が秦のアートプロモーションに、
原盤権は朝妻のパシフィック音楽出版が持つことになったのだった。
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この著作権と原盤権というものだが、ざっくりいうと
著作権はメロディや詩にかかるもので
原盤権は録音された音にかかるものだ。
どちらのほうがお金が取れるか、それは著作権の金額設定によるのだけど、
基本的に、原盤権のほうがレコードを発行すればするだけ印税としてお金が入る。
ヒットが前提となるが、当然売れれば売れるほど印税が入る原盤権のほうがお得だ。
ここはちょっとグレーな話なのだけど、これらの話はフォークルの頭の上で行われている。
本来このレコードは自費出版だから、両方の権利はフォークルが持っているはずなのだけど、秦に委譲していたのだろうか……。
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レコード発売に向けて
朝妻が大阪に飛んだのと同日、高崎は、東芝音楽工業(東芝EMI)というレコード会社に電話をかけた。
ニッポン放送の番組を通して親交があった東芝の高嶋に、あるレコ―ドの存在を知らせるためだった。
「面白いレコードがある」という話に高嶋は食いついた。
さっそくパシフィック音楽出版に赴いた高嶋に、高崎は「ハレンチ・ザ・フォーク・クルセイダーズ」から「帰って来たヨッパライ」を聴かせる。
ファーストインパクトではあまり腑に落ちなかった高嶋だけれど、
レコードを持ち帰って全曲聞き込むと、なるほど、曲の良さがじわじわわかってきた。
そして、
「帰ってきたヨッパライもいいが、イムジン河もいい。ヨッパライがコケてもイムジン河は絶対に売れる」という、一種の確信を持つようになる。
イムジン河は南北朝鮮の統一を願う美しいバラードで、
コミック・ソングの帰ってきたヨッパライとは正反対の曲調だが、カレッジ・フォークの流れの中にあって非常に耳馴染みがいい。
レコードを持ち帰った高嶋は、東芝の上司に「今から直接交渉に乗り出せば、権利は全部とれますよ」と豪語する。
東芝はビートルズとも契約を結んでおり、勢いと力がある会社だった。
それに、高嶋はビートルズ担当ディレクターでもあったのだ。
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これには件の原盤権が絡んでくるのだが、
レコード会社である東芝が原盤権を持てば、原盤の製作費はかかるが、レコードの売り上げがすべて懐に入ってくる。
しかし、朝妻がすでに権利をとりに動いていることを知っていた。
原盤権がないと、売れたレコードからパシフィック音楽出版に印税の支払いが生じて、儲けが薄くなる。
だから、今から行って、力でもって全部取ってやれ、と提案したわけだ。
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しかし、上司はその話に首を振らなかった。
PMPはパシフィック音楽出版のことだ。
自分の提案を否定されても、むしろうれしかったと高嶋は言う。
それならそれでやることがある。
せめてレコードを出版する契約をとりに行かねばならない。
そこで、大阪から帰ってきたばかりの朝妻を連れ出し、
飛行機で大阪に飛んだ。
マンションと言う記述がある本もあるので詳細は不明だけれど、おそらく高石音楽事務所があったビルの一室で、高嶋・朝妻は、体育座りして待っていたフォークルのメンバーと面会する。
高嶋は「ウチに来ればビートルズに会わせてやる」と誘惑した。
加藤たちはビートルズが好きだったから心を惹かれたのだが、きたやまは冷静に、一つ条件を出した。
それは「年内にレコードを発売すること」。
もう解散が決まっているし、メンバー全員が違う道を歩もうとしている。
だけど、レコードを出せば借金が返せて、おつりまで来る。
プロデューサー気質のきたやまは、話題になっているうちにレコードを出したいという強い希望があった。
実は、秦のもとに先んじて権利をとりに来ていた会社があるように、
フォークルのもとにもレコード出版の契約をとりに来ていた会社があったのだ。
だが、発売は早くて来年の一月になるという会社ばかりだった。
このとき、11月。
1ヶ月で全国流通できるほどのレコードを準備をするなんて、相当な強硬手段。会社に力がなければ許容できるスケジュールではない。
そして、ビートルズを抱えていた東芝音楽工業は、それを行える力があった。
高嶋は12月中の発売を約束し、かくして、いよいよフォークルが日本という舞台に躍り出る下地が整ったのだった。
ラジオの影響、侮るなかれ ~ニッポン放送「オールナイトニッポン」~
近畿地方で人気だけれど、ほかの地方ではまだ名前が知られていないフォークル。
けれど、この斬新な歌は絶対にヒットすると踏んだ業界人は、帰ってきたヨッパライの番宣を大々的に行う。
その筆頭となったのが、放送開始して1ヶ月あまりの新番組であり、今でも続く人気ラジオ、オールナイトニッポン。
この番組はニッポン放送の番組で、朝妻や高崎のパシフィック音楽出版と深いかかわりのあった。
なんなら高崎はその番組のパーソナリティをしていた。
そんなオールナイトニッポンで、毎日のように、帰って来たヨッパライを放送する。
果たして、
京都のアマチュア学生バンドが作ったオリジナル・フォーク・ソングは、
近畿を中心とした人気を得て、
全国区のラジオで日本に認知・受け入れられ、話題が話題を呼び、レコードが発売すれば大ヒット間違いなしと思わせるほどの熱の高まりを生み出した。
加藤は朝駆けで仕留めろ
きたやまは京都府立医科大学に通う医学生だった。
他のメンバーもそうだったが、きたやまも、あくまで音楽活動は一過性の青春であり、医者になる夢を辞めたわけではなかった。
けれど、彼の学校は学生運動の真っただ中。
そのため、翌年の1968年は学校が封鎖される事態になっていた。
そうなればやることがない。
1年の猶予がきたやまに生まれてしまった。
世間では、帰ってきたヨッパライの人気が明らかだ。
東京の会社が契約を申し込んできた。
レコードの発売もすぐに話が来るだろう。
全国区のラジオで話題にされているのだから、これからテレビにも取り沙汰されるだろう。
加藤に相談してもコックになると言ってやる気がない。
平沼も音楽活動はおしまいと割り切っている。
だけど、この燃えたぎる火をすぐに吹き消してしまってよいものか。
一年の猶予が、きたやまの音楽活動に対する割り切りを、揺るがしていた。
――。
――。
――。
ある日の朝、きたやまは加藤の家に行った。
加藤は大学をさぼったのか、まだベッドで眠りこけていた。
「加藤」
きたやまが声をかけると、加藤がパッと目を覚ます。
「加藤、やろう」
いきなり寝込みを襲われた形の加藤はまだ寝ぼけ眼で、枕元に立つ友人をぼんやりと眺めていた。
「1年やろう」
頭の回らない加藤はしばし逡巡して、答えた。
「いいよ」
朝駆け夜討ち。
きたやまは寝込みを襲う形で見事、加藤を仕留めたのだった。
第二次フォークルの発足!
加藤は仕留めた。
けれど、平沼はだめだった。
彼はすでに、音楽活動はあの解散コンサートをもって終わりと、割り切っている。
二人ではコーラス重視のカレッジ・フォークの魅力が薄まってしまう。
もう一人メンバーを決めなくてはいけない。
きたやまが何人かを提案して、それらに生返事を返していた加藤だけど、ふと思いついたように、一人の男を挙げた。
その男こそ、AFLとして一緒に活動していたドゥーディー・ランブラーズのはしだのりひこだった。
そのままあっさり加入が決まったということは、ドゥーディー・ランブラーズはすでに解散していたのかもしれない。
ともあれ新しくメンバーに迎えた、ザ・フォーク・クルセイダーズ改めザ・フォーク・クルセダーズは、はしだの加入から3日後(!)、「11PM」というテレビに出演している。
一般的に「ザ・フォーク・クルセイダーズ」として認知されているのは、この、加藤、きたやま、はしだの3人組による第二次ザ・フォーク・クルセダーズだろう。
そして、きたやまが提案した1年間の活動で、フォークルは日本に「フォークル旋風」とでもいうべき爪痕を残していくのである。
シングル第1弾「帰って来たヨッパライ」いよいよ発売。
第二次フォークルが成って1ヶ月。
1967年12月25日。
オールナイトニッポンで毎日のように流し、テレビ放送も行い、万全の体制で東芝音楽工業から強行スケジュールでリリースされた「帰ってきたヨッパライ」は、わずか1ヶ月で100万枚を売り上げるモンスター・ヒットとなった。
30万枚売り上げれば大ヒットと言われていた時代、
ビートルズのレコードですら、累計で一番売り上げたのが50万枚ほどだというから、いかにとんでもない事件だったか。
それに、あくまで1ヶ月で100万。
数字はまだまだ、ぐんぐん伸びている。
最終的には283万枚という、規格外の売り上げを見せた。
まず100万枚、いわゆるミリオンヒットというのは日本史上初の出来事だった。
それを、京都発の学生アマチュアバンドのオリジナル曲がかっさらってしまった。
原盤権を持つパシフィック音楽出版はこのレコードで名前を売り、
毎日帰って来たヨッパライを放送していたオールナイトニッポンの視聴率もうなぎのぼり。
東芝音楽工業も作れば作るだけ売れる状態で、
秦政明の高石音楽事務所も、この人気と資金を元手に音楽出版会社を立ち上げた。
これは、今までプロが作詞作曲してプロが歌うというシステムを根本から揺るがす大事件であり、海外の流れを日本人が成功させた、歴史的な出来事だった。
さらに、帰ってきたヨッパライが収録されたハレンチが取り沙汰されたことで、100枚しか売れなかったレコードも完売御礼。
各種印税も入り、借金も返してなお有り余る金。
メンバーではないが帰ってきたヨッパライを作詞した松山のもとにも、最初の印税の支払いだけえ、当時のサラリーマンの年収の4年分の金額が舞い込んできたという。
デビュー曲でここまで人気をたたき出し、なおかつ日本の音楽業界の常識まで揺るがしたザ・フォーク・クルセダーズ。
彼らには「次の曲もヒット間違いなし」の期待があった。
デビュー曲がコミック・ソングなら、次もコミック・ソングか。
いやいや。
ここはビートルズのように、全く違う作風の曲を出そう、と第二次フォークルは考える。
そもそも帰って来たヨッパライは録音手法がおもしろい曲なのであって、コンサートなどで披露するには不向きだった。
それなら、カレッジ・フォークの流れを汲んだ曲にしよう。
美しいコーラスで、民謡をやるのが、カレッジ・フォークじゃないか。
東芝音楽工業の高嶋も同じことを考えていた。
鉄は熱いうちに。
話題になっているうちに、もう1枚シングルを出して、この「フォークル旋風」を確実なものとしたい。
そこで、「帰ってきたヨッパライでコケてもこれがある」と確信していた、美しいバラードの、朝鮮民謡の曲に目を付ける。
この曲も、発売すれば間違いなくヒットになるはず。
それに、もう曲は出来上がっている。
アマチュア感の維持とスピード出版のために「帰ってきたヨッパライ」は「ハレンチ」から音源をそのまま使ったが、イムジン河ならば、今のメンバーで録音しなおす余裕もある。
アーティストとレコード会社、双方の思惑の一致により、
シングル第2段はハレンチ・ザ・フォーク・クルセイダーズに収録されていた朝鮮民謡「イムジン河」に決定した。
帰ってきたヨッパライからわずか2カ月後、2月に発売する目標を定め、
各々、2回目の「フォークル旋風」の準備にとりかかった。
まとめ
この段階で一万字を超えている……だと。
もはや誰かに読んでもらうための文じゃなくなっている気がするゾ。
さて、今回は、フォークルの解散から少し時間を巻き戻し、
その裏で地味にヒットしていた帰って来たヨッパライで、
フォークルが全国デビューするまでを追ってみた。
東京の会社も出てきて、いよいよ大事になってきた。
ここまでくると、アマチュア学生バンドの時代は終わり、彼らはアーティストに成る。
そしてその通り、加藤は第二次フォークルをきっかけに、決まりかけた就職を蹴って、大学を中退し、音楽活動に身を投じていく。
それが良いことだったか、悪いことだったか。
世界からビートルズがいなくなったら、という「Yesterday」なんて映画があった。
「ビートルズが居なかったら、ジョン・レノンは生きている」
人気にもならず、ゆえにある女性との出会いもないジョン・レノンは、海辺の家で静かに暮らしていた。
そんな世界もあったのだろうか。
ともあれ、まさにシンデレラ・ストーリー。
なぜにいままでドラマ化されていないのか不思議で仕方ない。
わたしがこういう記事を書く裏には、
彼らの小説を書いてみたいという思惑もある。
そのためにはいくつか不明瞭な点もあるし、時系列を考えると「?」となるところも多々ある。そこはいくらかごまかす形でまとめているが、これはいずれ正さねばならない時期が来るだろう(予言)。
次回はいよいよ
セカンド・シングル「イムジン河」
そして、セカンド・シングル「悲しくてやりきれない」
が世にでるまでを追っていく。
せっかくなので読んでいただけるとうれしいゾ。
長々とした記事を読んでくれてありがとう。
もし、わかりづらいところや、読みにくかった場合は遠慮なく教えてください。
フォローやスキなどしていただけるととても励みになりまする。
では、また次の記事で。
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