大雁塔地下宮殿
大雁塔からの帰りにバスを探していて、西に曲がったところで急に視界に入ってきた地下宮殿。ここは公式の大雁塔の地下宮殿ではなく、かつての防空壕を利用して作られた商業観光施設です。
手作り感あふれる観光スポット
私が訪れたときはチケット売り場もなければ価格表記もなく、スタッフさんも他の観光客もおりませんでした。
どこにでも人がいる国で、ここには誰もいない…訳のわからないまま中に入ってみました。
長い長いトンネル状の空間には出口があり、別の広場へ通じていました。
地下宮殿というネーミングセンス
「地下宮殿」という言葉は、中国人にとってエキゾチックで神秘的な響きを持つ言葉です。中国の歴史的な遺産の発掘において、いくつもの地下宮殿と呼ばれる空間が発見されてきました。
地下宮殿には大きく分けて2種類あります。まずは皇帝の住まいとしての地下宮殿。
古代からの風習で、秦の始皇帝をはじめ、歴代の皇帝や有力な貴族の墓には、死者があの世で使うための地下宮殿と呼ばれる空間が設けられており、棺と共に歴史的な宝物が発見されています。
そしてさらにもう一種類、寺院の中の地下宮殿。古代の寺院に建てられた塔の中にも地下宮殿が設けられており、その中には高僧の舎利や宝物などが保管されていました。
特に有名なのは、西安から約100キロメートル離れた法門寺の地下宮殿です。これは中国で発見された最大の仏塔地宮で、唐代に建造されたものと言われています。
しかし大雁塔には地下宮殿と呼ばれるものは発見されていません。大雁塔地下宮殿は本物の地下宮殿などではなく、かつての防空壕を利用した手作り感あふれる展示場といった感じです。
大雁塔のような重要な建造物には、未発見の地下宮殿が存在するのではないかと想像する人は多いでしょう。そんなピュアなロマンティストを翻弄するネーミングですね。
防空壕の再利用
大雁塔地下宮殿はかつての防空壕を利用して作られています。日本で「防空壕」というと、第二次世界大戦時に作られた洞穴のような狭い空間をイメージしますが、中国で言う防空壕(人防工程)は人民防空工程のことで、冷戦下の60〜70年代に作られた比較的新しいものです。
冷戦下の緊張
1956年のソ連のスターリン批判を契機に中国(毛沢東)とソ連(フルシチョフ)の間で路線対立が始まりました。60年代には中ソ国境紛争が勃発し、両国の対立が一層深まりました。それは70年代の文化大革命期にも続き、このため、中国はソ連からの空襲や核攻撃に備える必要性を強く感じていました。
「深く掘る」運動
ソ連からの侵攻に備えるために、毛沢東主席が国防の方法として考えたのが、「深挖洞(深く掘る)」運動です。経済的にも技術的にも限られた状況下で、大躍進のような大衆運動を通じ、国の方針を実現する施策の一環として、大規模な地下防空施設の建設が行われたのです。
この大衆運動によって掘られたトンネルの総延長は万里の長城を超えると言われています。その後、冷戦の終結と開放政策の中で、近代中国の遺構ともいえる大規模な防空壕を平時にどう利用すべきかが模索されました。
物資の保管庫や駐車場として活用されているものもありますが、北京地下城や上海の人民広場地下街など、商業や教育、娯楽施設など様々に活用されています。この西安の大雁塔地下宮殿もその一つなのです。