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2003〜2004年の中国南京での留学日記を転載していきます。
過去の旅や思い出や経験を共有することで、同じ場所を訪れる人や過去の旅行に興味がある人に役立つことを願っています。
はじめまして。 このnoteは、私が学生時代に書いた旅行日記を再掲載するためのものです。実は以前、WordPressで運営していたサイトがあったのですが、自分の技術不足とネット上の何らかのトラブルが重なり、残念ながらデータが消失してしまいました。しかし、幸いにも当時の日記を紙に印刷して保管していたため、ここに改めて公開することにしました。 2000年代前半の情報が多いため、内容は古いかもしれませんが、当時の旅行の記憶や経験が誰かのお役に立つことがあるかもしれないと思ってい
英語を学んでいても、「アメリカかぶれ」や「イギリスかぶれ」と思われることはほとんどありませんが、中国語を勉強していると言うと、よく「中国が好きなんだね」と思われます。これは、日本語を学んでいる中国人に対して私たちも似たような感情を抱くことがあるから、仕方ないのかもしれません。 でも、実際に「中国が好きですか?」と聞かれると、自信を持って「そうです」とは言えません。中国で知り合った人や学校で「你为什么学习中文?」(なぜ中国語を学んでいるの?)と聞かれるたびに、私は「中国映画が
新しく引っ越した先は鼓楼区の「南阴阳营」というアパートで、南京大学から歩いてわずか200メートル。宁海路、汉口西路、上海路といった主要な通りにも近く、非常に便利な場所にあります。 南陰陽営、北陰陽営 この南阴阳营という名前は、このあたりの地名を使ったもので、もとは明朝時代の衛隊の駐屯地でした。そして北側の北阴阳营はなんと、南京の文化的な発祥地。およそ5千年から6千年前、南京最初の住民が移住してきた痕跡のある古文化遺跡です。(発掘調査後、現在は住宅街となっています。) 何気
前年度は携帯電話を持たずに生活していましたが、留学を延長することになり、ついに購入することにしました。 私が購入したモデルは、白黒の液晶ディスプレイで、バックライトは青。カメラ機能はなく、通話と短信(SMS)だけができるというシンプルなものでした。価格は500元で、ノキアやモトローラ、LG、サムスンなどの主要メーカーと比べて廉価で、デザインも好みでした。 日本メーカーの存在感 中国に来て驚いたのは、日本メーカーの存在感がほとんど感じられなかったことです。技術大国である日
帰国後、すぐに実家から京都の大学へ向かい、単位移行の書類を提出しました。単位認定には少し時間がかかるようですが、これでおそらく3年次は無事に修了できるでしょう。 さらに、もう一つ重要な手続きとして、休学届も提出しました。 家族と相談の結果、留学をさらに1年延長することに決めました。行き先は再び南京です。 上海は就職に関する情報が豊富で、インターンシップの機会も多く、非常に魅力的です。また、四川などの内陸部で異なる文化圏から中国文化への理解を深めるのも面白いでしょう。しかし
2004年1月1日、南京大学宿舎。 元旦の南京には、お正月を祝う雰囲気が全くありませんでした。 中国では、西暦の新年よりも農暦の正月である春節が重要であり、2004年の春節は1月22日。 1月1日という日付に特別な意味を感じることはなく、中国の友人たちは軽く「ハッピーニューイヤー」とは言うものの、「新年快楽」(あけましておめでとう)とは決して言いませんでした。私が春節の大切さをまだよく理解できていなかったように、彼らにも私たち日本人の、新年に寄せる清新な感覚は分からないで
マンションの賃貸契約は一般的に1年以上ですが、私の場合は1年間の契約で、9月から翌年の9月までの予定でした。ただし、私の留学期間は5か月間、9月から翌年1月までしかありません。 そのままでは、残り7か月分の家賃が無駄になってしまうため、契約時に大家さんの了承を得て、ルームメイトを探してその人に家賃を負担してもらうつもりでいました。もともと、全額を前払いして家賃を安くしてもらっていたので、かなりお得な家賃だし、ルームメイトはすぐに見つかるだろうと思っていました。 ところが、
その日は朝からマンションの周囲が騒がしく、何かが行われているようでした。階下には多くの人が集まっていて、まるでミニ・コンサートが開かれているかのようです。しかし、プロの演奏者というより、住民が集まっている様子に見えました。年配の方々が歌ったり、楽器を演奏したりしていて、とても賑やかでした。 午前中に外出し、夜になって帰ってきたときも、その騒ぎはまだ続いていました。しかも、午前中よりさらに人が増えていて、敷地内の全住民が集まっているのではないかと思うほどでした。 窓から下を
南京師範大学のそばにある老舗の鶏スープラーメン店を初めて訪れたとき、衝撃を受けました。 (民间老鸡汤面馆。2024年現在は移転し、中山北路194号、虹桥ガソリンスタンドの隣、湖南路の近くにあるそうですが、味が同じかどうか分かりません。) 平打ちの手延べ麺は不揃いな形が特徴で、濃厚な鶏ガラスープによく絡みます。 トッピングは小ネギ、たっぷりの胡椒、そして細かく裂いた鶏胸肉。 スープを吸った麺は、香りが立ち、ほんのりと小麦の甘さが広がります。 中国では、スパイスやハーブをたっ
シンジは結局、10日以上の入院を余儀なくされました。ほとんど食事も取れず、彼は日に日に痩せていき、まるでガリガリのマネキンのような姿になっていきました。 シンジは中国で手術を受けることに強い抵抗感を抱いており、できるだけ早く帰国して日本で手術を受けたいと強く望んでいました。しかし、彼の出身地である愛知県へは南京からの直行便がなかったため、まず上海へ移動する必要がありました。病院は南京から上海までの救急車を手配してくれると言ってくれましたが、シンジはそれを断りました。費用がか
日本人の留学仲間であるシンジが、急に腸閉塞で倒れました。 普段から無茶をしがちな彼は、夜更かしが続いていたため、みんな彼の胃腸の調子が悪いだろうと思い、誰も真剣に取り合いませんでした。前夜には「飲めば治るかも」とビール瓶を一本空ける彼を、誰も止めようとはしなかったのです。 しかし、ついに彼は痛みで動けなくなってしまいました。 連絡を受けて、急いで人民病院に駆けつけると、ソンフンやジニョンをはじめ、中医薬大学の面々が見守る中、シンジは担架に乗せられてうずくまっていました。
南京駅の目前に広がる玄武湖は、市民の憩いの場として親しまれている公園です。先月の西安旅行で知り合った西北大学の留学生、Pちゃんが南京に遊びに来てくれたので、私たちはこの一帯を一緒に観光しました。 南京は、風水における理想的な土地の条件である「四神相応の地」として知られています。「四神相応の地」とは、地理的景観が東西南北を司る四神(青龍、白虎、朱雀、玄武)にふさわしいとされる場所を指します。 具体的には、南京の東には青龍に相当する紫金山(中山陵がある山)、西には白虎に相当す
南京大学でのクラス分けは、最初に行われるプレイスメントテストによって決まります。学生たちは、そのテスト結果に基づき、初級から上級までのクラス(A〜Dクラス)、そして最上級の「文化班」に振り分けられます。文化班では、中国語で中国の歴史や文化に関する講義を受けることができ、簡単な翻訳講座も含まれています。 私はBクラスに所属しました。クラスメイトは、ドイツ人が3人、イギリス人が1人、ギリシャ人が1人、そして日本人が4人という構成です。 授業中、イギリス人とギリシャ人のクラスメ
南京でのマンション生活は、自由と学びが詰まった時間でした。キッチンに立ち、もやしとニラを炒めたり、家常料理として馴染みのあるじゃがいもの千切り炒めを作る瞬間、自分だけの居場所が持てることの喜びを実感していました。 初めての晩は、自分で作った不思議な組み合わせの料理を一口一口味わいながら、自炊のありがたさを噛みしめました。冷凍水餃子と食パンという、どこかちぐはぐな組み合わせでも、キッチンがあるだけで贅沢に感じたのです。 別に料理が好きだったわけではありませんが、毎回外食に頼
2003年、急成長を続けていた中国での、外貨両替の仕組み。それは私にとって大きな驚きでした。 中国の外貨政策と固定相場制 20年前の中国は、輸出主導の経済成長を図るために人民元を低いレートで固定し、貿易収支の改善を目指していました。このため、人民元は政府の管理下にあり、市場レートとはかけ離れたレートで取引されていました。また、資本移動にも厳しい規制が敷かれており、個人や企業が外貨を手に入れるのは簡単ではありませんでした。 中国の為替制度(2002年のレポート) 闇両替
西安旅行から帰った後、最初に取り掛かったのは引っ越しでした。 南京に来てから1ヶ月が経ち、中国での生活にもだいぶ慣れてきた頃だったので、マンションの契約は学校では学べない貴重な経験となりました。 現在は賃貸価格が4~5倍ほどになり、留学生にとって外のマンションを借りる人は少ないようですが、当時は学生寮を借りるよりずっと安く外部の部屋を借りられたので、マンションやアパートから学校へ通う学生も多くいました。 (2003年当時) 不動産探しのプロセス学生が中国でマンションを借り