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意思決定と生活のスキル

先日、知人の「同調圧力に負けない意思決定」に関するポストをみてから、ずっと考えている。

意思決定って、そもそも周りの承認っているの?という疑問と、きっと”いる”と思うから悩むんだろうなと。

同じ頃、「ヘルシンキ 生活の練習」という社会学者の本を読んでいた。
幼い頃から自分のナショナリズムと向き合わざるを得なかった著者が、ヘルシンキに移住し子育て・仕事をしながら日々新たな価値観と向き合うもの(内容は戦争に関することとか他にもいろいろ)。
あらゆる差や”変わっていること”は性質の違いにすぎなくて、今はないスキルも練習可能という主旨がタイトルになっている気がする。

苦手、得意、いけてる、いけてない、そんなものはなくて、ただ違う。
子供も大人も個人の意思が尊重され、そのうえでどうするか。

意思決定に関して、わたしはかなり「自分で決めるひと」と思われている。

高校生の時に海外に行ったり、転職・独立・移住、そのほか諸々を当たり前に自分で決めてきた。
その際に、何回か非難めいた、落胆した言葉を受け取ったことがある。とても傷ついた。

でも思い返してみると、それは上司と親だった。

共通しているのは、そこにパワーバランスが存在して、
もしかすると彼らは私が管理下にあって、選択をジャッジすることのできる立場にあると思っていたのかもしれない。

管理下にある人間が、自分から離れる、リスクのある挑戦をすること、自分たちへのメリット(頻繁に顔を出す、これまで通りに働く)が減ることへの心配や怒りかもしれない。
事前の相談がなく、唐突だったのかもしれない。彼らも分かっていないところで、感情の琴線に触れたのかもしれない。

いずれにしても、彼らがわたしに感情をぶつけて良い理由、
私の選択をジャッジして良い理由にはならない。

でもそれが彼らや私のスキル不足から招いたことだろうと、
日本独特の文化だろうと、今問題にしたいのはそこじゃない。

冒頭の言葉と本によって、
わたしは自分の怒りを思い出した
昔から、個人の意思が尊重されない場面に、腹をたてていた。

献身や愛情や、金銭や生活の手助けの見返りに、
人の意思を否定したりジャッジして良いと思っていることに。
あるいはそれらを引き受けることで自分の意思を抑制する理由にすることに。
あるいは何かを差し出すことで何かを手に入れようとすることに。

これらは、他人の例でも自分の例でもある。
書いてみると、最終的には意思と引き換えに不幸せを受け入れる側(とそうさせる環境)に怒っているのかもしれない。別問題なのだ。意思と交換する行動は。モノのお返しならすれば良いけど、自分の大事なものを差し出したり手放してはいけない。

「個性の確立と他人との共創」というのは、
ずっと昔からある私のテーマだった。
その”個性の確立”というのが、アイデンティティとなるような仕事なのかクリエイティブなのか生き方かわからないけど、
ずっと”個性を大事にするべきだ”という思いがあった。

そんなことを思った数日。
本は面白いので興味ある方いたらぜひ。

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