アセクシュアルの私が、お坊さんとシスターから学んだこと
人から性的な存在として見られることに辟易していた私は、一時期「どうしたら人から性的な存在として見られにくいか」についてばかり考えていた。
私は今結構自分が好きだ。センスが良くて、社交的で、性別分け隔てなく素敵な友人がいる、そんなところが好きだ。だからそういう自分の好きなところを、変えたくはなかった。つまり、あえてダサい恰好をするとか、人との交流を少なくするとか、異性愛者の同性の友人とだけ親しくするとかいう方法はとりたくなかった。どういう属性を付け加えれば、もっと生きやすくなるだろう、と考えていた。
で、思いついたのだ。「聖職者になればいいじゃん」って。
宗教がないとか、宗教アレルギーが強いと言われる日本だけど、何故か私の回りには本業の聖職者が沢山いる。お坊さんに、神官に、牧師に、神父に、シスターに...。聖職者として生きる彼らに話を聞きに行った。
結論から言うと、自分の浅はかさを痛烈に反省した。
聖職者という職業は、確かにアセクシュアルにとっては理想的なものを沢山得られる魅力的な職業だ。パートナーがいなくても否定的なことを言われない、既婚者の異性と話していても怒られない、性的な存在として見られたときに、見た側の方が糾弾されて自分は安全地帯にいられる。しかも、性愛を抱かないという性質を、プラスの才能として生かすことができる。
でも、違うのだ。私の発想は根本的にズレているのだ。聖職者を単なる職業として、求人広告の条件を見比べるように比較の対象とするのは誤りなのだ。
私が聖職者いいな~って思った理由は、どこまでも自分のため。「他人からどう見られるか」とか、アセクシュアルだからってバカにされたくない、とか、そんなものだ。信者になるというだけだったら、信仰を自分のために得ても構わないかもしれない。だけど、人々を教え導く存在、聖職者というのは自分のためになるものではない。もちろん100%他人のために行われる行為なんてないのかもしれない。私が尊敬する聖職者の方々にも、最初のきっかけはすごく個人的なものだったという方もいる。
でも、私が出会って、素晴らしいなと思った方々は、自分のためという境地を抜け出たところで活動されていた(そういう方に限って、「私なんてまだまだですよ。利己的だなって反省することが多いんです」と柔らかに笑いながらおっしゃるのだけれど)。
と、思ったのだ。これって、別に聖職者に限らないよねって。本当に素晴らしい方、かっこいい方って、どの分野でも、自分のためという境地を抜け出たところで活動されている。
私は自分がセクシュアリティという問題に向き合うなかで、いつしか、利己的な殻に閉じこもってしまっていたことに気付いた。お恥ずかしい限りである。
セクシュアリティというのは、至極個人的なものだ。セクシャルマイノリティの自分に向き合うと、「なんで他人は理解してくれないんだろう」とか、「なんで自分はこんなに生きにくいんだろう」とか思って、考えがどんどんどんどん狭まってしまうときがある。
一方で、セクシュアリティは一人だけの問題でもない。だから、外に向かう力も潜在的には、ある。
聖職者になるとしても、ならないとしても、自分だけの殻に閉じこもっているのはもうやめよう、と思った。どうしたら成熟していけるのか、どうしたら素敵な人格者になれるのか、分からないことだらけなのだけれど。はじめの一歩として、セクシュアリティというものが持っている外へ向かう力をいかに利他的に用いるか、考えていこうと思っているところである。
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