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私はいくらで売れるだろうか?という考えが元凶

*この記事は性的な記述を含みます。苦手な方はご注意を

中学生になって、セーラー服に袖を通したとき、思った。

「私はいくらで売れるのだろう」

私は知っていた。

この社会では、女性には値段がつくということを(のちに男性にも値段がつくことがあるのだと知った)。処女は高く売れるということを。セーラー服の中学生を高値で買う人がいるのだということを。

直接そういう売買を知っていたわけではない。テレビが、新聞が、雑誌が、そう言っていた。 女性には値段がつくのだ!処女は貴重なのだ!中学生を買う人がいるのだ!

一方で、テレビも、新聞も、雑誌も、囃し立てるように言っていた。 身体を売るのは低俗だ!はしたない!けしからん!!

私は売買の対象物だと教え込んだ者たちが、だが、それを売るのはけしからんと叫んでいる。売れるのに。買う人がいるのに。買う人のことは何も責めないのに。


はじめてキスをしたとき、思った。「私のキスの対価は何だろう?」

相手がくれるクリスマスプレゼント?関係が繋ぎ止められることへの安心?キスをすると、菌が交換されるから免疫力が上がるらしい。女性ホルモンも出て、肌がつやつやするらしい。うーん。相手のキスより、私のキスの方が市場価値は高そうだった。じゃあ、差額分、相手は私に何をくれるのだろう?

はじめてセックスをしたとき、私は言った。「この社会では処女というのは特別な意味付けがされていて、高く売れるものみたい。不本意なセックスをして手放すよりはましだから、あなたにあげる。」

私は何を差し出したのだろう?アセクシュアルな私のセックスは、セクシュアルな相手のセックスよりも値段が低いのだろうか、高いのだろうか、はたして。


自分が与えたものより、相手がくれるものが大きいと、委縮したり怖くなったりした。相手がくれるものが小さいと今度は、悲しくなったり怒ったりした。「私はこんなにあなたを思っているのに、あなたは何も返してくれない」

相手が泣いたり怒ったりしたこともある。「自分はこんなにしているのに、お前はなにもしてくれない」


「...資本主義は、ありとあらゆるものを「商品」へと変えようとする志向性を持ちます。...したがって、資本主義のシステムの内部では「金で買えないもの」はあってはならないことになります。資本主義を徹底し、完成させようとするのならば、僕らは金で買えないものを排除し続けなければなりません。「金で買えないものはない」のではありません。そうではなく、「金で買えないものはあってはならない」という理念が正当なものとして承認される経済システムのことを資本主義というのです」『世界は贈与でできている』(『世界は贈与でできている』p.57)


私の心の奥底まで、資本主義の精神が滲み込んでいて、私はなんでも「商品」として捉えていた。相手の心にも同じ精神が滲みている。私たちは資本主義が与える枠のなかで、互いを傷つけ合っていた。

結婚は、永続的な売春契約。そうとしか思えない社会がある。そうとしか思っていない人々がいる。

全ての人間関係は、交換関係。そうとしか思えない社会がある。そうとしか思っていない人々がいる。


私とパートナーの関係は、自分たちのなかに滲み込んでいるものを一つ一つ明らかにすることによって、少しずつましなものになっていった。

あなたが生きている、それが素晴らしいこと

私は思う。私はパートナーに対してだけでなく、全ての人々に対してそう思う。私の文章を読んでくださっている、あなたに対しても。

「生きて、○○してくれるから」じゃない。「生きて、○○できるから」でもない。ただ、生きている、ということだけが理由なのだ。

あなたが生きていた、それは素晴らしいこと

私は過去を生きた人々に対して思う。未来を生きる人々もそう思ってくれるといいなと願う。

いつかきっと、私かパートナーのどちらかは、「あなたが生きていた、それは素晴らしいことであったなあ」と、相手に対して思うのだろう。その時を想像すると、淋しい気持ちにもなるけれど、晴れ晴れとした心地でもある。

私の生が過去のことになるまで、ただ生きるのみである。




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