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『歌わないキビタキ』読了

 いらしてくださって、ありがとうございます。

 梨木香歩さんのエッセイ新刊『歌わないキビタキ──山庭の自然誌──』(毎日新聞出版)が今秋発売されました。

 2020年秋に発売された『炉辺の風おと』の続編となる本作は、毎日新聞「日曜くらぶ」(2020年6月~9月)、「サンデー毎日」(2021年4月~2023年3月)での連載を書籍化したもので、前作に引き続き八ヶ岳の山小屋での暮らしを中心に、鳥やキノコ、草花や獣、そして人々や世の中を見つめる著者の感慨が、透き通るような美しい文章でつづられています。

 タイトルのキビタキとは、日本では夏鳥として知られる小さな鳥のこと。頭から尾にかけての黒い羽根色に、お腹や頭などには黄色やオレンジの彩りが鮮やかな小鳥で、本書の表紙と裏表紙にその愛らしい姿が描かれています。

 初秋の八ヶ岳の山小屋に、キビタキが姿を見せる。冬は温暖な南方へと渡るはずの鳥が、まだ此処にいた──。
 繁殖期と異なり、歌わないキビタキ。そんな彼の姿に著者は、近々、苦しく長い、命がけの旅にでなければならないという小鳥の、重たい鬱屈を見るのでした。

 梨木香歩さんのエッセイは、『春になったら莓を摘みに』『ぐるりのこと』『渡りの足跡』『エストニア紀行──森の苔・庭の木漏れ日・海の葦──』(いずれも新潮文庫)など十数冊を読んできました。
 いずれも、命ある者たちの存在そのものを「あるがまま」に、どちらかの立場に「偏らずに」見つめる著者の姿がありますが、本作は2020年~2023年という時勢での初出連載だったことから、政治や戦にまつわる言及がこれまでより多く見受けられました。
 
 また、ご自身の闘病についてもページを割いておられ、琵琶湖の仕事場を処分された話や、これまであまり触れてこられなかったご家族についても綴られる場面があり、梨木さんの内面……というか、梨木さんを育んできたものを、より深く感じられる内容でもありました。

 梨木さんの小説ファンにとっては、本書で紹介されるエピソードのなかに「あの作品のセリフのアイデアはここから採られたのか」というネタ明かしもあり、楽しめます。

 たとえば「ナイ、ナイ、スィーティー」という言葉。
 英語で書くと「night night sweetie」。いわゆる幼児語で「ねんねよ、愛しい子」というような意味ですが、こちらは小説『西の魔女が死んだ』(新潮文庫)の作中、主人公(孫娘・小学六年生)の祖母が、寝室に向かう主人公の背中にささやく場面が印象的です。

 本書『歌わないキビタキ』の「秋はかなしき」の章、著者が英国に下宿していた頃の大家さん(ウェスト夫人:『春になったら莓を摘みに』に登場する児童文学者ベティ・モーガン・ボーエン氏のこと)を思い出すくだり。
 大家さんは、ホットウォーター・ボトル(湯たんぽ)を渡してくれるときに、「ナイナイ、スウィーティー」と言っていたことが紹介されており、『西の魔女が死んだ』の祖母のモデルがウェスト夫人であることを確信でき、感慨深かったです。

 梨木さんのご家族については、前作『炉辺の風おと』で父上の御最期の様子が詳細に語られ、本作では母上の遠距離介護のことが記されています。
 母上は梨木さんを「明らかに娘と思っておらず、誰か親切な他人だと思って」おられる現状。おかわりを促されうなずく姿に、「それでも私はうれしくて」「くたくたの体で、次もカレーだと心に決めた」と綴っておられます。

 梨木さんと母上の関係性については、このやりとりの前段の記述がとても響きましたので、すこし長くなりますがご紹介させていただきます。

 もう三十年以上も前、実家に帰ったとき、母親と、お互いを深く傷つけ合うような喧嘩をした。その晩、母の指にトゲが刺さった。母の心にトゲが刺さったのだと、私は直感した。これは、私が母に刺したトゲだと。黙って針を火で焼き、長い長い時間をかけて母の指のトゲを抜いた。母は途中でもういいよといったが、私は諦めなかった。このトゲは私が抜かなければならない。とうとう最後にトゲが抜けた。そのときはもうだいぶ遅かったので、そのまま二人とも就寝したのだったが、それでほのぼのと仲直りしたというわけではなかった。けれど、「トゲが抜けた」という事象は、やはり私の心に象徴的な重要性を持った。(中略)

 消毒のために針を焼いてトゲを抜く、ということは幼い頃母から教わった。当時からずっと、私は様々こだわりのある子どもで、母にはそのこだわりがわかるよしもなく、のみならずそのこだわりを否定することが私のためになることだと信じている節があった。私はある瞬間母を蔑み、憎みさえした。母もそうだったと思う。だが子どもは、どんな親でも慕わしく思う根っこを捨て切れない。悲しいほど愚直に。その哀しさに、涙するくらいに。

梨木香歩『歌わないキビタキ─山庭の自然誌─」毎日新聞出版より一部引用

 この文章の後に、さきのカレーをおかわりする母上のことが書かれていたのですけれど。
 
 梨木さんの小説には、『西の魔女が死んだ』(新潮文庫)、『雪と珊瑚と』(角川文庫)などのように、相容れないものを抱えた母と娘とが描かれる作品があります。
 これら作品を読んだときに、もしかして梨木さんご自身も母上とそうした一面がおありだったのではと想像したことがあり、本書のこのいきさつを読んで納得したのでした。
 そして、『西の魔女が死んだ』『雪と珊瑚と』には、ウェスト夫人をモデルにしたと思しき祖母やくららさんという年配の女性が登場するのです。

 この二人の女性に共通するのは、ウェスト夫人さながらの「偏らない」考え方と、すべてをあるがままに受け容れるという寛大さと、人を信じる心。
 梨木さんは、ウェスト夫人をおそらくは人生の師とも思われ、自らもそのようにありたいと念じておられるようにも見受けられます。

 二つの小説に描かれる「わかりあえない存在としての」母の姿と、一方で主人公を受け止め、信頼し、自らの足で立っていけるよう、そっと後押ししてくれる存在として描かれる祖母やくららさんの姿に、「たとえ母親とはそうした関係を構築できずとも、代わりにあなたを理解してくれる存在はかならずある」という梨木さんの祈りが、物語に込められているようにも思うのでした。

 本書の印象深い記述には、『突然稲光いなびかりが差すように気づくということがある』という一節もあります。

 著者が長年お住いになっていた自宅、その向かいに暮らしていたご婦人が、しょっちゅう家の前を箒で掃いていらした姿が語られるのですが、あるときを境に、自宅前の道路にゴミが散乱するようになり。
 ちょうど新しい家も数軒建ったことから、そうした時の流れなのかと感じていた著者が、あるとき雷鳴が轟いたかのように悟るのです。
 「我が家の前も、あのご婦人が掃除してくださっていたのだ」と。
 すでに引越していかれたご婦人に、もはやお礼を告げることもかなわず、そして、数年、数十年前の、これまで思い出しもしなかったような出来事のなかに、「実はあのとき周囲はそう考えていたのか」と気づかされることがある、と述懐してもおられます。 
 

 むしろ五十年間ほとんど思い出しもしなかったのに、ピンポイントで思い出の修正案が、突如として、降りてくるのだ。これは一体どういう老化現象なのだろう。当時の自分の思慮の足りなさや未熟さに、これほどの時が経っても頭を抱える。誰かがもうそろそろこいつも真実に耐えられるようになったようだから、と教えてくれているようにすら思える。

出典・同上から引用

 このくだりには、激しく頷いてしまいました。

 私もこの数年、横になっていると、昔やらかした様々や御恩を受けたあれこれが脳裏に浮かんでくるのです。当時はよかれと思ってしていたそれらの言動、すでに忘却してもいた、それら自分本位の言動の数々や、それと気づかずに受け流していた御恩の数々……。
 ただ宙に向かってごめんなさい、許してください、あのときはありがとうございましたと呟くしかできぬのですけれど、そう、気づかぬまま召されるよりは、届かぬまでもいま気づき詫びること、感謝の念を飛ばすことができただけでもよしとするしかありませぬ……。

 『歌わないキビタキ』は、梨木香歩さんのファンにとっては待望のエッセイであり、著作にこれまでご縁がなかった方にとっては、生きること、人生をふり返るきっかけを与えてくれる書であり、また、自然の一部として生きるヒトの、本来の、あるべき姿を考えさせられる一冊でもあります。
 自然や生き物たちの描写の美しさは、癒やしも与えてくれます。
 興味を持たれた方はぜひ、ご一読を。

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 最後までお読みくださり、ありがとうございます。

 当地は冷たい雨が降り、寒さもひとしお。秋を飛び越えてもう冬の気配です。
 どうぞみなさまもあたたかくお過ごしになれますように(´ー`)ノ

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