『春になったら莓を摘みに』読了
(本記事は2022年3月の過去記事の再掲です)
いらしてくださって、ありがとうございます(´ー`)
今回ご紹介するのは梨木香歩さんのエッセイ『春になったら莓(いちご)を摘みに』(新潮文庫)です。
2002年に新潮社から刊行された後、平成18年に文庫化。購入したのは令和3年の第24刷です。刊行から20年経っても重版が、それも24刷。奥付を見るたびに、私が想像しているよりもっとずっと、梨木香歩さんはたくさんのファンに愛されていらっしゃるのだなぁと実感しております。
本作は著者初のエッセイで、著者が師事しておられた「ウェスト夫人」こと児童文学者のベティ・モーガン・ボーエン氏のもとで体験された「英国での出来事」を中心に、アメリカへの旅の様子などもつづられております。
冒頭、ロンドンの南部にある家の、庭先に訪れる動物たちの描写がありまして。
庭に撒かれたピーナッツを大慌てで芝生に埋め込むリス、その埋められたピーナッツをほじくり、次々と横どりしていくマグパイ(カラスの仲間)。やがて横どりされていることに気づいたリスが、『呆然と二本足で立ちつくす』姿──。
これまで読んできた梨木さんのお作品には、鳥や小動物たちのこうした仕草が絶妙な筆致でつづられていて、その童話的な情景を思い浮かべては、毎回笑みがこぼれてしまいます。
本作も、そうした動物たちの姿あふれるエッセイかと思いきや、各章に記される出来事の数々は、「人が、他者とどう折り合いをつけて生きていくのか」といった問いを読み手に投げかけてくるものでした。
著者が学生時代を過ごした下宿には、女主人ウェスト夫人と、さまざまな人種や考え方の住人が暮らしていて。児童文学者でもあるウェスト夫人は、
『理解はできないが、受け容れる』
ということを体現して生きておられる方。その強靭な博愛精神に揺さぶられながら、著者はそこで出逢う人々や出来事などを通して、ときに憤りを覚え、ときに共感しながら、「日常を深く生き抜く、ということは、そもそもどこまで可能なのか」を自らに問うていきます。
『ジョーのこと』という章では、著者がウェスト夫人の下宿で出逢ったジョーという女性のことが語られます。
ジョーには、彼女の小切手帳を盗んで外国へ旅行に行き、そのまま音信不通となっていた恋人がいたのですが、その彼があるとき、ふいに下宿にやってきて、そのまま居ついてしまいます。それを許したのはウェスト夫人の博愛精神あってのことですが、このエイドリアンという男性は、いろいろと「破綻」している人物で。恋人のジョーだけでなく、過去には母親の小切手帳も盗んで利用しており、ついにはウェスト夫人のそれまで盗んでいくのです。
この観察眼の鋭さと、文章化の的確さ、ものごとの本質を射抜く著者の言葉に圧倒されつつ、その先を読みつづけたのですが──。
エイドリアンの盗み出した小切手帳は、不審に思った銀行員が換金を阻止。それから彼はふらりと出て行ったきり帰ってこず、ジョーも彼と一緒になるため、仕事も彼女のキャリアもすべて捨てて、下宿を出て行ったそうです。反対するウェスト夫人を振りきって。
この出来事を受けて、著者はジョーに言いたくて、けれどそれを言うと領域侵犯になるような気がして言えなかった言葉を思い出すのです。そして、「彼との付き合いをやめるべきだ」という示唆を含んだその言葉を、もし告げていたとするなら、彼女はこう答えただろうと想像します。
──人間にはどこまでも巻き込まれていこう、と意志する権利もあるのよ。
と。
「あれから十四年たった。ジョーの生き方を云々できるような人生を、私は送ってこなかった。ジョーの行方は未だ知れない。」と結ばれた一連の出来事の結末に、「どこまでも巻き込まれていこうと意志する権利」という著者の言葉に、おもわず本を閉じて深い息を吐き、しばらく動けませんでした。
本書の各章で、著者が訪ねた土地の美しい風景描写とともに、そこで体験された出来事、そこから紡がれる思索とがつづられていますが、その言葉の一つ一つに胸を揺さぶられ、さまざまを考えさせられ……。
読み終えて、正直、己の卑小さが情けなくなりました。考えの浅さ、物事のとらえ方の幼稚さ。私には、若いころからいい歳になった今でさえ、何も見えてないんだなぁ、と。
感受性、精神性、さらにそれを言語化する力のなさ。何もかもが全然、足りてない。こんなレベルで文章を書きたいなどと口走っている場合じゃない、と。
それはともかく、私は梨木香歩さんという作家さまが、どれだけすごい方なのかということに今更ながら気づいて、そして、こんなすばらしい作家さまに出逢えたことを喜ばしく思い。己に足りないからこそ、己が卑小だからこそ、こうした高みにある方がつづられる素晴らしい作品を読むことで、足りないものを、すこしずつ、すこしずつでも満たしていけばよいのだと、そう思ったのでした。
本作タイトルの『春になったら莓を摘みに』は、最終章の、ウェスト夫人から著者への手紙の一節から取られたものです。(文庫版ではこの後に書き下ろしの『五年後に』という一節が加えられております)
さまざまに胸揺さぶられる出来事が綴られた本書の、その締めくくりに置かれた「2001年末」の一連の手紙には、アメリカでの9.11の出来事後の、平和への切なる願いがつづられています。
まさに当節の、「人類が史上最も高度な文明を築いているはずのこのとき」に、侵略により人の命が奪われているという現実を前にして──。
『理解はできないが、受け容れる』ことを体現しておられたウェスト夫人が、その精神を深く理解し受け継ぐ愛弟子へと送った手紙。彼女の言葉は、あたたかく光に溢れ、お読みになった方々すべての胸を打つことでしょう。
本作は、こんな時代だからこそ、みなさまにお手にとっていただきたい珠玉のエッセイです。機会がありましたら、ぜひに。
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最後までお読みくださり、ありがとうございます<(_ _)>
久しぶりにゲイリー・ムーアのBlood Of Emeraldsを聴いて、しんみり。急逝からもう十一年……彼の歌声もギターの音色も本当に大好きでした。
今日もみなさまに佳き日となりますように(´ー`)ノ