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(短編小説)静かな反省会

 

 目覚まし時計の鳴るほんの数分前、ミカコはメールの着信音で目が覚めた。小さめの音に設定しているはずなのに、今日は大きく感じた。
『おはよう。今日から仕事ですね。気楽にね』
 恋人からのメールを読み、ミカコは微笑む。
「さあ、起きようか」
 威勢の良い声とは裏腹に、ミカコはお腹を抱えながら、そっとベッドから降り、朝の支度を始めた。顔を洗い、メイクを済ませ、朝食の準備だ。
「よし、ここまでは順調順調」
 ミカコはつぶやく。ミルクパンでお湯を沸かす。ポットに茶葉を入れ、お湯をそそいだ。
「あっちっち!」
 勢いよく注ぎ過ぎたのか、お湯がはねた。次はフルーツだ。今日のフルーツはゴールドキウイとあまおうだ。小さなナイフでイチゴのへたを取り、キウイの芯を取って皮をむく。慣れた手つきでガラスの器に盛り付けて、すぐに完成した。
 オーブントースターでは、パンを焼いている。今日は山型のイギリスパンとレーズンの入ったフランスパンだ。甘くないパンと甘いパンの両方にするのが、ミカコのこだわりだ。
「あーあ、こげちゃった。やっぱり久しぶりだから」
 パンの端っこを焦がして、苦笑いする。オリーブオイルを回しかけたが、手が滑ってお皿につく。
「わー、カンが鈍ってる」
 気を取り直し、クリームチーズをバターナイフですくった。いつものように、ひとかたまりをぽてっと無造作にイギリスパンに落とす。そしていつものように生ハムを2枚乗せた。ミカコにとって朝食は小さなお祭りだ。毎朝の支度の中での唯一ホッとするひとときだ。前の晩から朝食のことを考えてわくわくすることもある。紅茶とフルーツとパンという3点だが、お気に入りの組み合わせをたくさんもっている。
「やっぱり家の朝ごはんはいいな。病院の朝ごはんは、おかゆだったもの。朝からお米のご飯はやっぱりつまらない」
 テレビのニュースをながめながら、ひとときを過ごす。10日前までは普通だった朝が、ちゃんと戻ってきたと感じた。
「さてと」
 15分ほどのお祭りは終わり、出かける支度の後半戦だ。食器を洗い、洗濯物を干し、着替えを終えた。お腹の傷がまだまだ痛くて、少しよろよろしてしまう。
「あーあ、少し早まったか」
 ミカコは弱気になる。1週間前、お腹の手術をしたばかりだ。退院2日目の出勤はやはりきつかったかもしれない。

「もっとゆっくり休んでから復帰していいからね」
 上司の言葉はありがたかったが、経理の仕事をまかされている責任感から、出勤すると申し出てしまったのだ。
 早起きしたおかげで、いつも通りの時間に支度は完了した。出がけに玄関に飾ったフリージアが香った。
「あー、いい香り! よし!」
 切り花を絶やさない日常に早く戻りたくて、一昨日、病院帰りに買ったのだった。
「じゃあ、行ってきます」
 一人暮らしだけれど、小さくつぶやいてとびらを閉めた。 

「行ってらっしゃい」
 静かに空気が振動している。ため息ほどの小さな響きがキッチンあたりから起こった。
「しまった。はりきりすぎた」
 まず、オーブントースターが反省した。
「パン、こげてましたもんね」
 オリーブオイルが小さく笑う。
「私もはしゃぎ過ぎて、つい狙いを外したところに落としてしまいました」「私もやってしまいました」
 ミルクパンもぼそぼそ言った。
「それはそうと、ほら、あの、あの」
 洗いかごの中で、マグカップが言った。
「そうそう、あの、あれ、何て言いましたっけ?」
 はじかれたように隣にいたパン皿やフォークも言う。
「ス・マ・ホ!」
「よほど早く伝えたかったようね。あんな大きな音を出して」
「うずうずしていたの、気配でわかったわ」
 か細い声たちが合わさって、涼やかな笑い声になった。
「ねえ、みなさん、私、いい仕事したでしょ!」
 玄関の方から参加した声があった。フリージアだ。
「うんと体を揺らして、香らせたもの。あ、でも茎のあたりがね、いたた」
「大丈夫ですか。無理したんですね」
 くぐもった低い声がした。靴箱にいる靴たちだった。
「ミカコちゃん、大丈夫かしらね。よろよろしていた」
「疲れて帰ってくるでしょうね」
「我々も気を引き締めて、がんばらねば」
「そうだそうだ」

 それぞれが、ひとしきり言いたいことを言い、部屋の中はすっと静かになった。
 レースのカーテン越しに、初夏の朝日が目いっぱい差し込んでいる。 
 主を待つ、いつもの一日が始まった。

 ==END==

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