読書感想文の書き方とは「どこをどう書くか、考えながら読むこと」だと今さら気づいた。
小1の時からずっと、作文は得意だが読書感想文は苦手だった私。本好きで読書量はそれなりにあるはずだが、noteでも本の記事は絶対に書けないものと思い込んでいた。
しかし書けた。最近何度か、読んだ本の感想のような記事を書くことが出来たのだ。
なんだ。やればできるじゃん!
夏休みの宿題の読書感想文が苦手で鉛筆が止まっていたのに。
大人になってからも、息子の読書感想文の宿題すら見てやれなかったのに。
しかも調子に乗って映画の感想文まで書いてしまった。
ところでこの一連の感想文のスタートは実は、昨年秋の映画の感想文だったような気がする。
この「すずめの戸締り」の感想文が、自分の中の「(読書)感想文」の概念を壊したのだ。
なんとなく感想文とは「こうでなければいけない」というような思い込みがあった。そしてその「こう」は、なんと実体のないものだった。
「こう」のカタチが分かっていれば、そのカタチにそって書けばいいだけだ。しかし私は小1以来まったく感想文の書き方が分からないままにきた。
だから「こう」の中身がないのだ。
それなら自由に書けばいい。好きに書けばいいなら何も問題はないはずだ。
しかしどういうわけか私には、感想文には「決まった形式」があって「それにのっとって書かなければいけない」という思い込みがあった。そしてその「形式」を私は「知らない」んだ、と。
「すずめの戸締り」の感想文を書いたときは、映画の感想文を書くつもりで書いたわけではない。映画を観に行ってきた事実を書いただけのつもりだった。だから、書き終わってから「あぁ、これでいいのか!」と自分で驚いた。
もちろん正統派の感想文とは言えない気がするけど、感想は人それぞれなんだから、感想の表現方法も人それぞれでいいんだな、となんだか腑に落ちたのだった。
それがきっかけで、読んだ本の感想を書いてみる気になった。
しかし感想を書く前提で本を読んでいると「読み方」が変わることに気がついた。
前提がなかったときは、当たり前だが純粋に「読む」行為に没頭していた。読む、読む、読む、以上。読み終わったら、はい、次の本。それだけ。
感想を書く前提だと、読みながら「ここはネタになるな」という意識が常に働くようになった。「こう書いてあるけど、私ならこうする」とか「このストーリーで、自分の過去のエピソードを思い出した」とか。
なるほど。これなら感想文もどうにか書けそうじゃないか。
感想文が(曲がりなりにも)書けるかどうかは、書く前提で読み進めているかどうかだったのだ。
私は本を読むことが好き過ぎて、本を読むことのみに集中していたから、なんの感想も抱かなかったに違いない。だって本は本来、作者の紡ぎ出したストーリーを追うもので、読者の自我を活躍させる場ではないんだから。
そう考えると読書感想文が苦手という人には2種類いたのかもしれない。
本好き過ぎて自我を語る余地がなかったタイプ。
本を読むのが苦手過ぎて、自我を語る境地に至らなかったタイプ。
それなら読書感想文が得意な人はどういう人だったのか。
謎だ。
なぜなら私のまわりには、そういう人がひとりもいなかったからである。たったひとりのエピソードすらも聞いたことがないので、独断と偏見に満ち溢れた分析ですら、やりようがない。
きっと得意な人は教え上手な先生に恵まれたに違いない。そういうことにしておこう。