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たびけん ~ 日本の素敵な建築を知りたい/守りたい人たちの旅の記録 ~4

エピソード4 岩本栄之助がいなければ野村證券はなかった?野村財閥創始者「北浜ただ一人の親友」

辰野金吾が設計に関わったことでも有名な大阪市中央公会堂。美しい、私が大好きな建築のひとつだ。ただ、建設のために巨額の寄付をした相場師の岩本栄之助さんが、完成を見ることなく自ら人生に幕を引いていたことをついさっき知り、驚きのあまり目と口を大きく開いたまましばらくフリーズしていた。

「丹波先輩、この建築を後世に残した栄之助さんのこと、もっと教えてください」

ようやく言葉を振り絞ると、先輩は黙って私の顔を見ていた。

「“驚き”を見事に表現した表情をしていたね」

しまった!またヤバイ顔をしていたか!

「栄之助さんが迎えた人生の結末にびっくりして固まっちゃったんです。その間も頭の中ではいろいろ思い出したり反省したりしてたんですけど、そんなことより、衝撃的過ぎて頭がどうかなっちゃいそうなので、話を整理させてください」

100年以上前の、さっきまでよく知らなかった人の話なのに、気がどうにかなっている。私が愛する建築の生みの親が選んだ、あまりに悲劇的な最期は、私をひどく動揺させた。そして好きだと言い続けていた建築について、自分があまりにも浅い知識しか持っていなかったことも、ショックに輪をかけた。

小さく深呼吸して話を続ける。

「そもそも、そもそもですよ。投資家って、儲かったら次の投資の原資にしようと考えますよね。儲けた中から公共のために数十億円も出すなんて、私が抱く投資家のイメージからすると、珍しいというか、その世界では奇特な方とすら思っちゃうんです。人物像がまるでわかりません。いったいどんな人だったんですか?」

丹波先輩はひと呼吸置いて話を始めた。

「まず、栄之助が生まれたのは明治10年。大阪の両替商『銭屋』を営む家の次男だった」

銭屋という屋号を聞いて「ゼニや、ゼニや、ゼニ儲けや」という関西弁が頭の中でループし、イメージもそっちに引っ張られそうになる。そんな私の脳内を見透かしたように、先輩は話を続けた。

「父親の栄蔵は、実に誠実な人だった。その人柄から『株界の聖者』とまで呼ばれていてね。きれいな商売をして、しっかり大きな利益を出していたから、周囲から尊敬と信頼を集め、地域の両替商総取締を長く務めていた。栄之助が生まれた翌年、北浜に大阪株式取引所ができると、銭屋は住友や鴻池と共に60人しかいない株式仲買人に選ばれている」

頭の中で「ゼニやゼニや」と繰り返していた黒天使は、「誠実」「尊敬」「信頼」と書かれた矢に射抜かれて駆逐された。さらに驚きが追いかけてくる。住友や鴻池と一緒に選ばれるって、凄いことなんじゃないの!?

「栄之助自身もまた、人柄の良さで知られた人物だった。生前を知る人の栄之助評は『誠実』『堅実』『士魂商才』という良い声ばかり。友人の一人に野村徳七という人がいたんだけど、野村證券ってわかるよね? あと大和銀行」
「野村證券は知ってますが、大和銀行は聞いたことがないです」
「大和銀行はあさひ銀行とくっついて、いまはりそな銀行になっている。戦前は野村銀行と名乗っていて、野村財閥の中心だった。野村證券は野村銀行の一部門が独立したものだよ。その野村財閥を作り上げたのが野村徳七。徳七が『北浜でのただ一人の親友』と言っていたのが栄之助だった」
「え!そんな凄い人が心を許していたんですか!?」
「心を許すも何も、そもそも、栄之助の決断がなければ、野村財閥はできなかったかもしれないし、野村證券だって存在していなかったかもしれない」

なんか、すごい話になってるんですけど…。

「野村證券って、日本のトップ証券会社ですよ。親友だったからといって、大会社の命運を握るとか、そんな話あります? 話を盛ってますか?」

私にとって栄之助さんはついさっき初めてしっかり認識した人。野村證券やりそな銀行は私のような若造でも前から知っている大会社。この2者について知名度調査をしたら、日本のほとんどの人が私と同じような感じだと思うし、この話をにわかには信じないと思う。

栄之助さんの最期を聞いた時のショックはまだ残っていたが、相手や雰囲気に飲み込まれず、気になったらちゃんと疑問をぶつけるのは、私のいいところだ。

丹波先輩はさして表情も変えず、「簡単に説明すると」と話を続けた。

「日露戦争が明治38年に終結した後、株は上昇基調に入った。そんな時期、39年3月に栄之助は家業を継ぎ、28歳で取引所の仲買人になる。その39年末から40年にかけて株がとんでもなく暴騰した。この時、人気を集めたのが大阪株式取引所株で、“棒立ち相場”と言われるほど勢い良く値が上がった。まだ駆け出しの株屋だった野村徳七、当時はまだ信之助と名乗っていたんだけど、徳七は相場を読み間違えて売りに走り、大損をして追証請求から逃げ回る日々に。大阪市場には他にも相場を読み間違えて大損し追い詰められた仲買人が多数いて、徳七はそうした仲買人たちと相談し、静観していた大阪株式取引所の大株主、栄之助の元を訪ね。株を売ってもらうように頼みに行く」
「ライバル業者が、『ミスって損して大変だから、株を売って助けてくれ』って頼みに行ったってことですよね? 普通、そんなの受け入れないですよ。有り得ない。ムリムリ」

素人の私でも、株は誰かが損するから誰かが儲ける、そういうものなんだと理解している。だからその道のプロどうしでこんなやり取りは成立しないのが普通だと思う。

「ところが栄之助は『株式取引所ができて以来の長い付き合いですから』と、売りに回ることを決めた」
「ウソでしょ!」
「そして翌日、栄之助は実際に売りに走り、株価も下げに下げて徳七たち窮地に陥った仲買人たちは救われた。それどころか徳七は莫大な利益も得て、これが商いを大きくし、財閥を作る礎となったんだ」

驚いた!
でもいまそれやったらインサイダー的な問題にならない?と頭をよぎる。

「実は栄之助自身も、この時売りに走ったことで200万円以上儲けた。いまの価値に直すと、基準にするものの違いでばらつきが大きいんだけど、100億円以上になるようだ。いずれにしろ、仲間のために動いたことで大きく稼いだ」

また驚いた!明治時代に株でそんなに儲けた人がいたとは!

「そのお金が中央公会堂建設資金になったってことですか?」
「すぐそこには結びつかないんだ。この少し後から、栄之助は周囲に『公共のために何かをしたい』と漏らしてはいたけれど、実際に公会堂を建てることを決め、大阪市に100万円を寄付したのは明治44年のこと。その間に渡米したことが、大金を寄付しようという決断に大きな影響を与えた」

またちょっとわからない。アメリカに行ったことがどう公会堂と結びつくのか?

「アメリカで立派な公会堂を見て、感銘を受けたとかですか?」
「建物そのものより、文化だね。アメリカでは富豪が当たり前のように公共事業や慈善事業に財産を投じ、人々のためになろうとする。その実態を知り、栄之助はそうした文化を日本にも取り込みたいと思ったんだろう。自分が率先して寄付しようと決意した」

ここまで聞いて、投資家である栄之助さんが多額の寄付をしたことが、ようやくしっくりくるようになった。

先輩は話を続ける。

大手町にある渋沢栄一像

「栄之助が渡米した時のメンバーがすごいんだ。まず、団長が渋沢栄一」「ええ!論語と算盤でめっちゃたくさん会社を作った新しいお札の人! 一緒にアメリカに行ったんですか」

「そう。さらに鐘淵紡績社長、東京電燈社長、三井物産取締役、川崎造船所社長、東武鉄道の根津嘉一郎社長も一緒だった。そうした錚々たるメンバーの中に永之助も入っていたんだ。いかに実業界から期待されていたかがわかるね。ちなみにいま名前をあげた中にいた東武の根津社長は、熱海の『起雲閣』という素晴らしい邸宅の持ち主でもあったから、覚えておいて」

起雲閣

「熱海の起雲閣ですね。スマホのマップに印をつけときます。もしかして、寄付には渋沢さんの影響もあったんですかね?」
「栄之助が寄付を考え始めたのは渡米前からだけど、具体的にどう進めたらいいかは渋沢に何度も相談して意見を聞いていたそうだ。渋沢は大阪で行われた栄之助の父・栄蔵の追善茶会にも出席しているし、その後に行われた大阪の府知事、市長、大手メディア、財界人を集めた午餐会では、渋沢本人が栄之助の計画を発表したんだよ」
「超大物の渋沢さんがその役割を!」

私が知らなかっただけで、どうやら栄之助さんは、日本の歴史に残る超大物が何度も時間を割いて会い、大阪まで足を運ぶような、相当な人物だったようだ。

「公会堂建設のために財団を作るように勧めたのは渋沢だし、顧問にも就任している。大正4年に行われた定礎式では、渋沢はわざわざ来阪し、『定礎』の文字を揮毫している」
「渋沢さん、中央公会堂建設にそこまで深く関わっていたんですか。知らんかったー」

大阪市中央公会堂南東側にある渋沢揮毫の定礎石

中央公会堂をジグソーパズルに例えるなら、私が知っていた岡田信一郎さん、辰野金吾さん、片岡安さんという設計者の方々は、大切なピースではあるけれど、一部のピースに過ぎなかった。パズルの台紙かつ重要なピースとして岩本栄之助さんがいて、さらにもうひとつ、大きなピースとして渋沢栄一さんがいた。設計者を知って建築を知ったような気になっていたのは、いかにも浅かった。

それにしても… 気になるのはなぜ栄之助さんが自害するまでに追い詰められたか、だ。(続く)


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