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【雑記】競争社会の本質

現代社会、特にアジアの都市部の多くは、競争社会だ。

しかし、競争社会とは、人に求められてそうなっている訳ではない。社会的倫理に基づいて…、という訳でもない。

では、なぜ私達の生きる社会は、競争に満ちているのか?

それは、端的に言うと、人に承認欲求があるためだ。より本質的には、競争社会の存在は、人が他人に認められるための手段(=“成功”の在り方)が画一的であることに立脚していると考えられる。

即ち、競争社会が生まれ、存在し続ける原因は、”成功”するための手段が「競争に勝つこと」以外に存在しないことにあるのだ。

ここで言う「競争に勝つこと」とは、例えば東京では、概ね以下のようなこと指す:

・人より勉強ができる
・人より経済的余裕がある
・人より容姿が良い(=社会的に美しい/かっこいいとされる容姿に近い)
・人より「いいね」を沢山もらえる
・人より仕事ができる(=特定の業界やコミュニティで善とされる言動ができる)
・ゲームやスポーツに勝つ
・条件の良いパートナーや配偶者と一緒になる
・いいタイミングで子どもを授かり親になる

これらを裏返すと、私達が生きる社会の「理想像」が浮き彫りになる:

“頭が良く、体力も優れており、裕福で、容姿が世の中のトレンドに近い(=マス受けする)。加えて、自己プロデュース力や仕事のセンスもあり、恋愛や子作り・子育ても卒なくこなす、健康体の人間“

そんな人が、私達が生きる社会における、“競争力が高い人”(=「理想像」)であるということが解る。

そういった条件から少しでも外れたら、当該社会におけるその人の「競争力」は、その分だけ下がる。

このパワーバランスについて、私は幼い頃から、なぜか納得感を得られずにいる。

私は、スポーツ等で他人と競争をした際、勝っても負けても、その結果そのものに対しては殆ど無関心な、不思議な子だった。

「勝ったとしても、いつもの私と比べて良いパフォーマンスを発揮できなかったら悔しいし、負けたとしても、相手を尊敬できるなら凄く嬉しいよ🥰」

中学生の頃、硬式テニスの試合の帰りに、私は友人にそう話していた。本音だった。

今でもその考えは変わらない。

闘うべきは、昨日までの自分であり、他人ではない。今も昔も、私はそう信じている。

対して、競争社会は、私とは異なる価値観に立脚して存在しているように思える。即ち、社会が競争至上主義になる本質的な原因は、当該社会における「理想像」が画一的であることに尽きるのだ。

現に、「理想像」や「成功の在り方」に多様性のない社会は、競争が激しくなる。(日本よりも競争が激しいと言われる韓国が良い例だ。)

なぜなら、そのような社会では、皆が同じ理想像に向かってどんどん時間やお金を投資し、努力をしてしまうためだ。

私が、そのような画一的価値観を前提とした社会の良さをイマイチ理解できずにいる理由は、色々な理想像/多様な“成功”の在り方があって然るべきという考えを持っているためだ。

【多様な理想像を許容する人の価値観(例)】
・美しさとは、必ずしもマス受けするトレンド顔を真似ることではない
・賢さとは、試験や肩書きで全てを測ることができない
・恋愛・結婚を卒なくこなしていても、弱い立場の人を傷つけるような人は人格的に尊敬できない
・幸せとは、お金をかければ全てが手に入る訳ではない
※皇朝子の私見

もちろん、社会的に定義された画一的な「理想像」を体現するような方にも、素敵な方々は沢山いる。きっと彼らは人知れず努力をしてそうなっている筈であり、尊敬できることも多々ある。しかし、だからと言って、「そうでない人が劣っている」という発想には、私は決してならない。

私には、他人に認められる手段が画一的である(=競争に勝つことが、唯一の承認欲求を満たす手段である)という社会が、良い社会であるとは、なぜか思えない。

人は誰もが、十人十色の立場で生まれ、過去と理想を背負って生きている。そうである限り、それぞれが異なる理想像を掲げる社会の方が、自然で美しくはないだろうか?

※今の私に関して言えば、”健康体“に戻りたいという、至極質素でプリミティブな理想がある

(闘うべきは、昨日までの自分であり、他人ではないと思うんだけどな…)

私はこの「競争社会」に生きる者として、こういったささやかな違和感をずっと抱えながら、今日もすぐそこで「我よ我よ」と張り合う人々を、少し遠くから眺めている。

もしかしたら私は、少し価値観が歪んでいるのかも知れない。でも、せめて私だけでも、多様な“成功”の在り方を次の世代に示すことができる、そんな大人でありたい。

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