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【コラム】あなたは、いつ花を咲かせたいか?〜「遅咲き」のメリット〜
花には、「早咲き」の花もあれば、「遅咲き」の花もある。
花にはきっと、それぞれ、自分で「咲きたい」と思うタイミングがある。
人間も同じだ。
しかしながら、「最年少●●」という肩書きがある種のステータスと見做されていることからも分かるように、なぜか人間社会では、「早咲き」のほうがかっこいいという価値観が蔓延している。
他方、私は、花を咲かせたいタイミングは、人それぞれであって良いと考えている。「早咲き」にも、確かにメリットや華やかさはあるが、早ければ早いほど良いというわけでは無いというのが、私の私見である。敢えて「遅咲き」を志向することで得られるメリットもあると、自身の人生を以て実感しているためだ。
私は、「遅咲き」の人間だ。
これは一定程度は選択的なものである。
私が「遅咲き」である一番の理由は、自分の経験値や時代の変化に併せて、目標を柔軟に変えてきたためだ。
「早咲き」になる人に共通する素質の一つに、「一度決めた目標に疑問を持つことをせず、一つのことを一定期間まっすぐに取り組み続けることができること」が挙げられる。人は、同じことを続ける方が、変化を続けるよりも、早く成功しやすいためだ。
「早咲き」と評される成果を出すまで、ひたすら一つのことを続けられるというのは、素晴らしい能力であり、才能であると思う。(私にはそれができないから、心から尊敬できる)
しかしながら、気づいていない人が殆どであるが、「早咲き」は多くの場合、代え難い大切な機会を犠牲にする行為でもある。
例として、以前コンサルティングファームにいた時のことを振り返ってみる。
若くして管理職になった方や、最年少でパートナーになった方や、最年少で執行役員まで登り詰めた方を見ると、”Think out of the box”(既存の枠組みに疑問を呈する)タイプは意外と少ない。
彼等の多くは(※全員ではない)、組織の政治的都合に振り回されることや、職業固有の制約やしがらみに対して、あまりストレスを感じない、または深く考えていない人が多い。良い意味で、自我が強すぎないのだ。
「本当にこれで良いのだろうか?」「中長期的には他の経験も積むべきなのではないか?」等と、深く考え、自我と向き合うタイプの人財ほど、方針をピボット(転換)して、変化を選択し、別の道を歩む決断をしていく。
正直、傾向としては、そこに能力の差はそこまで感じない。(もしもファームに残ったとしたら「最年少●●」という肩書きを手に入れることもできたであろう人財が、ファームから出ていった方々の中にも何人かいる)
彼等は、単に、「早咲き」よりも変化を選び、将来の成功の質的な納得感をより高いものにすべく、辞めるという決断をしたのだと思う。
もう一つ、別の例を挙げよう。
学生起業家は、多くの場合、20年そこそこの人生経験と学校で習う知識を主な拠り所として、創業する企業のミッションを決める。
仮にこの会社で「早咲き」(=仮に、上場とする)を叶えたいとした場合、会社を成長させ、上場させるまでの間、その起業家は30歳前後になるまで、この企業ミッションを、大きくブレさせずに、掲げ続ける必要がある。
即ち、たとえその起業家が、4-5年目になって、もっと広い世界を知り、より社会的に意味のあるイシューが全く別の領域にあると気が付いたとしても、「早咲き」を達成するためには、大きな方向転換はできないのだ。
その時、起業家は、「早咲き」と方向転換のジレンマに陥ることとなる。仮にここで、企業ミッションの妥当性を優先し、ミッションの変更や大幅な事業内容の見直しをすることを選べば、上場は諦めるまたは先延ばしとなり、「早咲き」は叶わない。
これらの例のようなシチュエーションで、一貫性を持って初心を貫き「早咲き」できる人は、ひとえに凄い人である。これはこれで、賞賛に値すべき才能でもあると思う。
しかしながら、(良し悪しではなく、)「早咲き」することによって失う機会も大きいことが、これらの例からお分かりになるだろう。要するに、「早咲き」には、変化する機会を一定犠牲にする性質があるのだ。(ここでいう変化とは、垂直的な成長ではなく、目標のアップデートや方向転換といった、水平的な仕切り直しを指す)
一方で、皮肉にも、良質な変化ができる機会は、年齢が若いほうが多く訪れる。
これは私の経験的私見であるが、10代〜30代で、柔軟かつ選択的に変化をしてきた人にしか、見えない世界がある。そして、変化の先に見える世界は、確実に世界の本質に近づいている。
変化すると、世界の見方が変わる。
視座が変わり、問題意識のスケールも変わる。
問題意識のスケールが変わると、これまでの考え方や自分の能力が小さく感じ、ある種の謙虚さが芽生える;「このスケールの問題を解決するためには、もっと●●や▲▲の経験を積まなければ」と、考えるようになるのだ。
その意味で、「遅咲き」の人は、謙虚であり、より世界の本質に忠実であろうとする人なのではなかろうか。
少なくとも私は、視座が世界の本質に近づけば近づく程に、謙虚さと柔軟さを以てそれと向き合うことを選択してきた。そしてその地道なプロセスは、時に成功を先延ばしにすりこともあるが、何にも変え難い生きる喜びをもたらしてくれている。
そうやって変化(=目標のアップデート)をしてきた結果として、私は、私が目指すスケールの社会的インパクトを創出するためには、少なくともあと20年は必要であると考えるに至っている。
時間はかかるが、私は、自身の目標がこれまでの月日で何度も磨かれ、アップデートされ、洗練されているという事実を、誇りに思う。
私は、決して成功への「近道」を志向してきた訳ではない。むしろ、自身に必要な変化を課し続けることで、将来咲かせる花を、より美しいものにしたいと考え、生きているのだ。これこそが、私が人生で下してきた選択であり、私が選択的「遅咲き」である所以である。
あなたは、いつ花を咲かせたいだろうか?