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Full Moon Fes(ネパール2005)


ボダナート Boudhanath

 カトマンズ盆地に空高くそびえたつボダナート。ネパール最大の仏塔であり、チベット仏教の中心地のひとつだ。ボダナート付近に行くと分かるがここは他のエリアと住民の雰囲気がやや違う。ネパール人よりもチベット系の方が目立つのだ。もちろん信仰としてボダナート周辺にチベット人が住むというのもあるだろうが、1959年の中国共産党のチベット侵攻以来、チベットからネパールに逃れてきたチベット人の子孫が多いという。

 このネパール式仏塔であるボダナートは他の国の仏塔と見た目で大きく異なっている。何といっても塔の上部に描かれた目。白いドーム状の上に黄金色をした箱のような直方体があり、そこに目が描かれているのだ。そして顔の上にも寺院の相輪に相当するような空に向かって伸びる塔があり遠目にはとんがり帽子を被っているようにも見える。相輪の縁には一周ぐるりとヒラヒラと布が下がっているのでより一層帽子っぽく見える。つまり白いお椀のようなドームの上はどう見ても帽子を被った人の頭部に見えてしまうのだ。一方その下の白いドームがずんぐりむっくりとした体を表しているようにも見えるので全体としてユーモラスな雪だるまっぽく見えなくもない。ネパール式の仏塔はこのように擬人化した独特のスタイルをとっている。ちょっと強引な発想かもしれないが仏塔を仏像に見立てているかのようだ。そしてその目が描かれた顔は一面だけでなくなんと四面全てに描かれ、さながら4面仏のようでもある。このようなスタイルはネパールの他の仏塔でも見られる。カトマンズ中心にあるスワヤンブナート寺院でもボダナートよりはずっと小ぶりだがボダナート同様に目が4面に描かれ、リトルボダナートといってもいいぐらい見た目は似ている。

 この仏塔に描かれた目はブッダの知恵の目と呼ばれ、世界を見渡すという意味があるらしい。一応中国のチベットエリアでもこのような知恵の眼は仏塔に描かれることもあるのだが、描かれたとしてもネパールほど目立つ感じはない。ネパールの場合はさらに目の下に渦が上についた細長い線の鼻のようなものまで描かれる。しかしこれは鼻ではなくネパール数字の「1」であって生命の調和を表すという。つまりネパール式の仏塔は白い巨体のようなドームや帽子を思わせる相輪、そして眼だけでなく鼻のようなものまであるけれど無意味なものを付け加えて人の形にしようとデザイン化したのではなくちゃんと宗教的意味の下で擬人化されている。でも確かにこのように人っぽくした方がどことなく巨大なブッダがそこに存在して世界を上から見通しているかのように見える。かなりニュアンスは違うだろうけど、仏塔をある意味において仏像に近い人型に見立てたのかもしれない。そうすることに無機質な存在で物質的な石の塊に近い塔から、有機的であって肉体としての人の形に変換することよって尊敬の念や見守っていただける宗教的な安心感を得ようとしたのではないのだろうか。巨大なただの白いドームがそこに存在しているよりもやはり心理的には山のようなブッダが見下ろして見守っていただける方がありがたみを感じても不思議ではない。

  
 

満月祭 Full Moon Fes

 仏教において満月はとても重要な日として扱われている。ブッダは旧暦の5月の満月の夜に生まれ、同じ日に悟りを開き、そして涅槃に旅立った(入滅)。普通に考えればそんな三つもの大事な出来事が同じに日に、しかも満月という特別な日に起こるのは確率的にもおかしすぎるだろうという意見も出てくるだろうけど、宗教的にはそうなっている。したがって仏教界では満月に暦的な意味合いだけでなくそれなりに神聖なる意味も含んでいる。満月の日に僧侶の世界では「布薩(ふさつ)」と呼ばれる行事があるそうで、満月が来るたびに僧侶は反省をし、人々はブッダの教えを学びなおすという。日本では現在においてそんな習慣は一般人の間ではほとんど知られていないが昔は普通に行われていたのかもしれない。今でも東南アジアなどの寺院では場所によっては満月の夜にお寺に大勢参拝客が集まり、祈祷を捧げる。特に有名なのはスリランカのポヤデーではないだろうか。スリランカのポヤデーはなんと休日になっているという。特に5月は前述したようにブッダの誕生、悟り、入滅といった大切な日でウェサック(Vesak)と呼ばれスリランカ全土で一大行事となっている。

 今回のネパールのボダナートでも満月の夜は特別扱いされている。満月の夜にはランプが多く灯され巡礼者が増えるというので行ってみることにした。

 暗くなる少し前にボダナートに到着し、中に参拝しに入った。今までにも何回かこのボダナートに来ている。このようなところは日中の方が当然参拝客が多く,暗くなるにつれ皆帰っていくのだが、やはり満月の夜は違う。結構な数の村人が参拝しに来ており、ボダナートを右回りに祈りながら参拝している。ちなみにチベット仏教では右回りと決まっていて、逆回りは宗教上いけないことになっている。余談だがチベット仏教と似ているボン教では逆の左回りだ。夕方から日が完全に落ちそして暗くなるにつれてランプを灯す人も増えてくる。写真のように背後にも見える巡礼者はチベット系が多い。

 

 
 
巡礼者数だけでなくいつもとちょっと違うのは音楽や読経をしているチベット僧が目立つ。

 
 
 実はこの日は空模様が悪く満月が見られないのでは思っていた。しばらくすると小雨まで降ってきた。しかし服がわずかに濡れる程度で大きな問題はなさそうだった。そしてわずかだが五体投地しながら回る人もいる。小雨の中、服などの汚れは全く気にしてなさそうでひたすら五体投地を繰り返しているのが印象的だった。

 
 
 そして徐々に空が暗くなっていき、小雨の止み、さらに参拝者が増え、ランプの光も増えていった。しばらくすると空を覆っていた雲も段々と消え去り、満月が雲を通して形が分かるようになってきたのだ。完全な満月は拝めなかったが、雲を通して明るい光を届けてくれたのだ。

 
 
 古代、ゴータマ・シッダールタの時代には当然電灯はなく、夜間は月明りもしくはランプなどの火の光で生活をしていたはずだ。特に満月の時は明るく、空から届けられる光のエネルギーは神秘的なもので、一種の神の恵みの光のようにありがたかった。そして月の満ち欠けは暦などと直結していて多くの人は夜になると無意識的に月を眺め暦の確認をし、そして農耕の時期などを推し量った。つまり月と生活が密接な状況だった。そして死後の世界観として天国という概念もあった。それらを考えると死後の祖先が住む天の世界からの光に対して、少なくとも宗教的に重要であったと思われる。死後の世界からのエネルギー的なもの、天空から現世である地球を照らすありがたい光と感じていたのかもしれない。そして最大の明るさとなる完全な円の満月そのものに神秘性を感じて、それがブッダの誕生や入滅と結びついていたとして全く不思議ではない。

 ボダナートで満月の夜に響く読経の声はブッダへの教えを学びなおす特別な日だけでなく光の源である天上界への感謝と賛歌の声のようにも感じる。そしてこの宇宙の神秘的な光は巡礼し仏への祈りを捧げる人々を照らす天上界からの微笑みの光のようであり、満月に入滅し天へ昇って行ったブッダからの祝福の光のようなありがたさを感じているのかもしれない。
 
  
 
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