あの特別な感情を文芸の最前線でアップデートする400パーセントの恋愛小説、町屋良平著『恋の幽霊』/書評家・三宅香帆さんによる書評を特別公開
恋によってつくりかえられる身体
書くことは、残すことでもある。日記などは顕著であるが、私たちの変わりゆく現在を、言葉で固定することによって、保存することが可能になっている。たとえば高校時代の日記なんかを読むと「ほんとにこんな幼稚な文体でしか書けなかったのか」「もっと違う言葉で語れたんじゃないかな」と思うこともあるのだが、しかし、当時の自分の感情や身体を残す言葉は、その文体しか存在しなかった。それだけが確かな事実となって、私たちの手元に残る。身体はどんどん変化していき、感情はいつしか消えてゆく。しかし言葉だけは、記憶を超えて、保存される。
町屋良平という作家はしばしば「身体」という主題を扱う。いや正確にいうと、「身体」の感覚を言葉によって残す、記録する、描写することを試みる作家なのである。身体などという言語化されづらい、捉えどころのない存在を、言葉で捉えようとする挑戦の軌跡。それこそがこの作家の小説なのだ。
私は本作が町屋の新しい代表作になることを確信する。なぜなら、ボクシングを主題にした小説『1R1分34秒』や暴力的な人物を描写する小説『ほんのこども』で表現されたような「身体感覚の言語化」というテーマを扱いつつ、その主題を更新しているからだ。
本作の主人公は、4人の男女である。高校時代の同級生であり、仲の良い男女グループだった、4人――土、しき、京、青澄の関係は、人生のうちに「恋愛のぜんぶを出し尽くしてしまっ」たかのようなものであった。4人は、全員が全員に、恋をしていたのだ。つまり「4人とも恋人」だった。
そんな、世間からすれば些か不思議にうつるかもしれない、4人の関係性の特徴。それは心よりも身体が先に来ている点である。たとえば、しきは土と話していた時、ある時点で土がこれまでと異なる顔をしていることに気づく。「顔」や「声」がこれまでと違う、としきは思う。それは、恋の顔だった。そして土は「おれ、京がすき」としきに告白する。その時、しきは、土が京に恋をしているという現実によって、自身の身体がつくりかえられてしまった、と感じるのだった。
このようなエピソードひとつとっても、本作において「恋」とは「顔をかえるもの」であり「身体をつくりかえるもの」であると表現される。恋は「身体」をつくりかえる。それこそが本書の描く「恋」なのだ。世間では恋とは心の結びつきだと表現されたり、あるいは精神的な流行り病だと表現されることもあるだろう。だが町屋良平は、それをあくまで「身体」が先行するものとして表現する。それはしきに限ったことではなく、本書を貫く通奏底音なのである。つまり身体が常に先にやってくる。五感が恋を語る。高校時代の恋の記憶は、常に身体感覚と隣り合わせになっていく。
彼らは10代だった頃、彼ら自身の身体を、頭でコントロールすることができなかった。だが大人になった4人は、それぞれに頭で考え、自分を制御しようとしている。弟に子育ての母親役を押し付けられている青澄、社内で恫喝してくる上司と寝る京、預金が尽きたら死のうと思いつつ薬を飲み続けるしき、そして久しぶりにやって来た京からのメッセージに返信しない土。4人にとって、高校時代の身体の記憶は遠く、自らの感情と乖離した生活を送るのが現在の時間である。
物語においては、高校時代の鮮烈な身体感覚と、死んだような身体を引きずり生きる現代の4人の様子が交互に語られる。その文章には、あるからくりが潜むのだが――それはぜひ本作を読んで体感してほしい。
私たちはどんなに忘れたくないと思ったことも、忘れてしまう。身体的な感覚は、尚更だ。高校時代の鮮烈な一瞬も、どこかで消え去ってしまう。現在が死んだような時間を生きていると、過去の記憶まで、死んだようなものに変わってしまう。だがその過去を、どんな言葉で語るのか。どんな文体で語るのか。私たちはその語り方によって、記憶を変化させられることを、知っている。恋愛関係なんてその最たるものだ。現在の関係によって、その恋の記憶はどんなものにも変えられる。恋愛の幸福な身体感覚なんて、一瞬だけのものかもしれない。だがそれでも、身体同士が触れ合い、恋に発展するその一瞬を、本作は祝福しようとする。
言葉を通して語られる本作の身体感覚は――決して美しいだけのものではない。しかしその記録が、人生を言祝ぐこともある。そのような作者の信念に基づく小説が、やっぱり美しくないわけがないのだった。