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【西加奈子✕宮内悠介 対談】クリシェと向き合い、小説を再発見する

 最新刊『ラウリ・クースクを探して』が2023年8月21日に発売されたばかりの宮内悠介さんと、その単行本に推薦文を寄せた西加奈子さんによる対談が「小説トリッパー」2023年秋季号に掲載となりました。自分に近い人物を主人公に据えるとき、クリシェを小説でどう扱うかなど、「書くということ」を巡る充実の内容をWEBでも公開いたします。

小説の当事者性

西:編集者の方から「バルト三国のエストニアに生まれて、ソ連崩壊で運命を変えられたラウリ・クースクという男性の一代記です」と伺っていたので、今度の宮内さんの本、どれだけ分厚くなるんだろうと思っていたんです。プルーフが送られてきたら、とてもコンパクトだったので驚きました。240ページ弱ですもんね。でも、その中にぎっしりとラウリの人生やこの国の歴史が詰まっている。中央アジアが舞台だった『あとは野となれ大和撫子』は何ページくらいでした?

宮内:原稿用紙換算で言うと、600枚です。今回は300枚ですね。

西:拝読していて、ローベルト・ゼーターラーの『ある一生』という小説を思い出しました。アルプスの麓で暮らした男性の一代記なんですが、150ページぐらいしかないんですよね。彼がいかにして彼一人だけでは生きられなかったか、つまり時代という大きなものに翻弄されてきたか、という話で『ラウリ・クースクを探して』と、どこか共鳴している気がしました。ただ、ローベルト・ゼーターラーはオーストリア出身でオーストリアのアルプスの麓を舞台にしています。日本人である宮内さんは、どうしてエストニアが舞台の話を書こうと思われたんでしょうか。

宮内:旧ソ連を舞台にすることを最初に決めたんです。その理由は、作品に出てくるMSXというコンピュータが関係しています。東西冷戦時代、ソビエトはCOCOM(対共産圏輸出統制委員会)という輸出規制を受けていて、性能のいいコンピュータは輸入できなかったんです。そこでソビエトが取った戦略が、おもちゃみたいなコンピュータを輸入して教育などに使うことでした。その中に、日本のMSXというコンピュータもラインナップされていたんです。

西:小説の中に出てきたやつですね。ラウリは少年時代、MSXでゲームをプログラムすることに熱中していた。

宮内:私も小さい頃、MSXで遊んでいたんですよ。鉄のカーテンの向こうにも自分と同じようにMSXで遊んでいた子どもたちがいたんだ、という発見が着想の源になりました。そう言えばコンピュータについて小説で正面から扱ったことがあまりなかったなと思い、この作品でやってみたいな、と。旧ソ連の国家の中で、エストニアはIT大国として有名だったので、おのずと候補になっていきました。

西:当事者性の問題って最近、よく言われますよね。「日本人の作家が、エストニア人の話を書いていいのか?」というような。もちろん私は書いていいと思うし、大切なのは「どう書くか」ですよね。逆に「当事者だから書いていい」というのも違うんじゃないか。例えば私の場合であれば、短編で乳がん患者のことを書きましたが、自分が乳がんの当事者だからといって全ての同じ属性の人のことを語る権利を得たわけではない。同じ当事者であっても一人一人感じることは違うということを忘れてはいけないし、そもそも作家って自分が主導権を握るのではなくて、物語が要請してくるものを書くべきなのではないかと思うんです。と言いつつ今、そういうことを宮内さんに聞こうとしちゃってるんですけど(笑)。

宮内:日本人である私がエストニア人を書くことについては、細心の注意を払わなければいけないとは思っていました。ただ、先ほど西さんに言及していただいた『あとは野となれ大和撫子』を書いた時に、主人公を日系の女性にしたんですね。その選択が、日本人である自分が海外を舞台に書くことに対する言い訳っぽいな、と後になって感じたんです。それもあって今回は、日本人ではなくエストニア人の男性を主人公にしたんです。

西:言い訳っぽい、とおっしゃる宮内さんはすごく公正な方だなって思います。

宮内:今回ラッキーだったのは、作中のラウリと同い年ぐらいのエストニア人の方に発表前の原稿を読んでもらうことができたんですよね。その方にいろいろとツッコミを入れていただけたおかげで、リアリティを底上げすることができました。

西:例えば今ロシアがウクライナを侵攻していますが、国のせいで運命を変えられたという人は、世界中にたくさんいる。ラウリのような人は一人じゃないんだ、たくさんいるんだ、と改めて感じることができました。

宮内:あまり時勢とはリンクさせたくないんですけれども、今回は避けられないところがありました。エストニアはロシアの隣国ですから、次は自分たちの番ではないかと恐れている。その現実は、無視できるものではないとは思います。

宮内悠介著『ラウリ・クースクを探して』(朝日新聞出版)
宮内悠介著『ラウリ・クースクを探して』(朝日新聞出版)

日本人の未来に繋がるかもしれないエストニア

西:エストニアには行かれたことがあるんですか。

宮内:ないんです。本当は取材に行きたかったんですけれども、コロナ禍で海外旅行が制限されている時期だったので、断念しました。行ったことのない国を書くのは、たぶん二作目の南アフリカ以来ですね(『ヨハネスブルグの天使たち』)。

西:私は一度だけあるんです。フィンランドへ行った時、ヘルシンキからタリン(エストニアの首都)行きの船が出ていて、確か二時間ぐらいで着くんですよね。ちょっと行ってすぐ帰ってきただけなんですけど、街並みがとても綺麗だったし、日本語英語がすごく通じた記憶があります。

宮内:ジャパニーズ・イングリッシュって意外と世界各地で通じるんですよね。

西:当時は旧ソ連圏だとすら思っていなかったかも。宮内さんの小説を読んで、こんな歴史や文化があったんだと初めて知ることばかりで驚きました。例えば、Skypeってエストニア発祥なんですよね。それも知らなかった。あの手のものは、だいたいカリフォルニアあたりでできてると思ってました。

宮内:エストニアって不思議な国なんです。私と同い年の人間が革命を経験して、そこから急速な自由化と経済的な混乱を経て、今やIT大国となっている。一つの国が短い時間の中で、ものすごい変遷を経験していて。

西:結構前から、電子投票も実現しているんですよね。エストニア版のマイナンバーカードについての記述を読んで、これなら必要かも、と思ったりしました。読む前までは、日本のマイナンバーカードについて「何や、これ!」とか、けんけん言ってたんですけど(笑)。

宮内:エストニアは島がとても多い国なんです。突然の自由化を経て、2000くらいある島々に行政サービスを届けるためには、コンピュータを利用するしかなかったんですよね。そうする以外に仕方がなかった、という面があったようです。あと、とても小さい国なんですよ。島々を全部合わせても面積は日本でいう九州ぐらいで、人口も少ないから社会実験がしやすい。だから他国より一歩先んじて、eIDカードというマイナンバーカード的なものも普及できたみたいです。

西:なるほど、切実さがあったんですね。小説の中のある登場人物が、「領土を失っても、国と国民のデータさえあれば、いつでもどこからでも国は再興できる」と言いますよね。それはどこまで宮内さんの想像かはわからないけれども、例えばユダヤ人は、迫害されてきた歴史の中で、簡単に持ち運べるものや目に見えないもの、例えば権利とか、そういうものを財産にしてきたという話を聞きました。「国と国民のデータさえあれば、いつでもどこからでも国は再興できる」という発想も、この国の歴史的背景から出てきたのかもしれないとか、いろいろ考えました。

宮内:「データ大使館」は、実在しているんです。

西:そうなんですか!!

宮内:国の領土は不確かなものだし、すぐ隣にはロシアもいる。ですから、国と国民のデータを同盟国に置いておいて、いつ国が侵略されても国そのものは滅びず、データとして存在し続けるみたいな考えが本当にあるようなんです。私も驚きました。

西:「じゃあ、国って何だろう?」ってなりますよね。領土は必要なのか、誰が国民として見なされるのか、とか。国ごと亡命するってなると、一人一人の体はどうなるんだろう。

宮内:いつの日か再興したときに、復旧が簡単になるということでしょうかね。亡くなってしまった人は残念ですが、生き延びた人は、データ大使館のデータを使って、従来の生活を取り戻すことができる。

西:すごい考え方ですね!

宮内:今回コンピュータを題材として扱うにあたって、「人類にとってコンピュータとは何だったんだろう?」と考えてみたんです。そういえば、今まで考えたことがなかったな、と。もちろん無数に答えがあるんでしょうけれども、この「データ大使館」の考え方は一つの有力な答えになり得るものだと思いました。電子投票といいマイナンバーカードといい、この国の現在は、もしかしたら日本人の未来にも繋がっているかもしれません。

私小説的な小説を書くとき

宮内:『ラウリ・クースクを探して』は、私の作品の中ではかなり異質なものになってると思います。これまでの作品は、先にテーマとかアイデアがあることが多かったんです。デビュー作の『盤上の夜』だったら盤上ゲームを扱おう、『〜大和撫子』だったら「国家をやろうぜ!」みたいなプロジェクトを扱おう、と。今回は「英雄ではない、ただの一人の人間を書きたい」という思いが先にありました。その人の半生を描き出す、伝記的なものを書いてみたかった。そもそも、一人の人間を掘り下げて書いていくような話自体、今までほとんど書いたことがなかったんです。

西:ラウリって、私たちと同世代の設定ですよね。

宮内:1977年生まれですので、私自身より2歳上です。

西:先ほど話した当事者性とも関わってきてしまうのだけど、同世代の主人公を書くとき、主人公が思っていることをやっぱり信頼できるって感覚になりませんか? 例えば、阪神大震災を30歳で経験した人と5歳で経験した人と17歳で経験した人とでは、感じ方が絶対違うじゃないですか。

宮内:全く違いますよね。

西:同世代であれば、自分は17歳で経験したってことを、信頼して主人公に託せる。でも、それを私はエストニアを舞台にやろうとは思わないから、宮内さんの選択はすごく興味深い。ラウリが幼い頃に感じたことは、宮内さんが感じたことと共鳴するところはあるんですか?

宮内:ラウリの幼少期の思い出は、僕が子供の頃やってきたこととほぼ一緒ですね。子供の頃からコンピュータが好きで、プログラミングに熱中していたんです。

西:そうなんですね! エストニアで育った少年の話ではあるけれど、私小説でもある。それができるのは、やはり物語という形を借りるからですね。

宮内:さきほどはテーマやアイデアが先にあるかどうかで、これまでの作品と今回の作品との違いに触れたんですが、プロットの立て方の違いも大きいんです。例えば『~大和撫子』は完全に構築的な作品だったので、すごく細かなプロットを立てていました。でも、今回はかなりゆるやかなプロットで、それも自分にとっては珍しいのです。それはゼロから曲を作るような話ではなくて、私小説的な面があったからなんだと思います。

西:じゃあ、もともとメロディはあったというか、自分の中にあったものを掘り起こしてゆく感じだったんですね。

宮内:私はわりと記憶で書く部分も多いんですが、特に今回はそうでした。ぴったり真ん中でソ連を崩壊させようとか、そういうことは決めていましたが、流れに任せて書いてみた部分も大きいです。

西:ラウリはプログラミングを通じて、イヴァンという同い年の男の子と出会うじゃないですか。宮内さん自身、イヴァンみたいな人とも出会っていた?

宮内:そうですね。コンピュータのおかげで、通常では出会えなかったような、仲のいい友達ができました。

西:二人の関係、とても素敵でした。たぶんこの小説を読んだ人はみな、自分が人生の中で出会った、イヴァンみたいな存在を思い出す気がします。

宮内:今回の小説のタイプは、西さんの小説で言うと『サラバ!』に該当すると思うんですよ。幼少期に外国にいて日本へ帰ってきた人が、もしかしたら必ず一度は書くような構造の話になっているのかなと思いました。ラウリ・クースクはずっとエストニアにいるんですけれども、実際は国を移動しているようなものですから。

西:私は『サラバ!』で主人公を同い年の男性にして、自分が経験したことをそれこそ彼に託すように書いていったんですが、男性にした理由は「僕はこの世界に、左足から登場した。」という最初の一行を思い付いたからなんですよね。ただ、今考えれば自分との距離を離しておいた方が、客観性が出てくるんじゃないかなって予感があったのかもしれません。

宮内:私もその感覚がありました。自分の出身地であるニューヨークを舞台に、日本人男性の話を書いたらこうはならなかった。あまりにも自分そのものだと、書いていて息苦しいところがあるのかもしれません。

西加奈子さん(左)と宮内悠介さん(撮影/朝日新聞出版写真映像部・高野楓菜)
西加奈子さん(左)と宮内悠介さん(撮影/朝日新聞出版写真映像部・高野楓菜)

コンピュータがもたらした変化

西:ラウリはタフな少年時代を送っていく中で、最初の頃は逃げ場がない状態ですよね。でも、コンピュータと出会うことで、鬱屈した狭い世界から広い世界に飛び出していくことができた。どれだけ狭い場所にいても世界中の人と簡単に繋がれるって、コンピュータがもたらした、最も素晴らしいことの一つなんじゃないのかなと、私なんかは思うんです。

宮内:本来はそうですよね。息苦しくなってしまった面もありますが……。

西:世界を広げてくれるツールのはずなのに、最近は世界を狭くするために使うことがあるのがもったいないですよね。「SNSで閉塞感を感じる」って、どういうことやねんって思います。ものすごくアンビバレントな存在だと思うんですよ。例えば最近、家のWi-Fiが調子悪くて「Wi-Fiおっそいわー」ってイライラしちゃったんだけど、こんなイライラ、10年前はなかったじゃないですか。10年前まではなかったイライラの感情を、コンピュータのせいで経験しちゃっている。それと同時に、バンクーバーに住んでいた時に、コロナで簡単に帰れなくなったんですが、コンピュータのおかげで日本の友達や親とずっと繋がっていられたんです。「せい」と「おかげ」が共存する、こんな両極端なツールってなかなか他にないと思うんですよ。いや、そういうものって今までの歴史にももちろんあったはずだけど、こんなに急速に変わるものってなかったんじゃないか。変化のスピードが、コンピュータとかインターネット界隈の特徴だなと感じます。

宮内:私も最近、ChatGPTの話に全然ついていけなくて、苛立たしいです。

西:宮内さんでも!?(笑)

宮内:「昨日、これができるようになりました」と、新たにできるようになることが毎日毎日多すぎて、全然ついていけないんですよ。情報を追いたくても追いきれない。

西:随分前からそうだったのかもしれないですけど、それって人間の脳や身体では処理できないようなことをしてるってことじゃないですか。すごい時代になったもんだなあって思うのは、友達の友達がChatGPTにハマっちゃったんですって。私は全然詳しくないんですけど、コンピュータがすぐ返事をくれるんですよね? その人はずっと悩み事を友達にスマホで伝えてたんだけど、友達は人間だから永遠には付き合えないじゃない? 途中で寝たり、仕事しているとすぐには返事が来なくなるけど、ChatGPTは永遠に返事をくれるから、めちゃくちゃハマっちゃったらしいんです。

宮内:身体がないですからね。疲れないですから。

西:心配して友達がその人に話を聞いたら、「もう友達になった。私に対してため口になったんだよ」と。それを聞いた友達が、「ChatGPTはいわゆる壁打ちだから、自分がそう仕向けてるんだよ。ため口にするタイミングを自分が作って、自分が全部そうさせてるだけなんだ……」って懇切丁寧に説明したんですって。そうしていくうちに、その人のアディクションは解けていったらしいんですけど。

宮内:本当にあるんですね、ChatGPTアディクション。

西:海外で、それで自殺した人がいるってニュースも読みました。

宮内:あっ。私も読みました、そのニュース。つらい話だったから、読んだはしから忘れちゃったのですが。

「書く」という行為がもたらすもの

西:ラウリが中学生の時に、お前は旧ソ連派につくかエストニア独立派につくのか、選ばされる場面がありますよね。中学生という、自分がまだ何者か確立していない時に、そんなに大きなものに目を向けて、選ばなければならないという状況自体があまりに酷ですよね。しかも、若い頃にした決断がのちのちの人生を決定してしまう。仕方のないことかもしれないけれど、人間って変わるのに、残酷な現実だなって感じました。ただ、宮内さんの小説はそういった現実も書きつつ、世界中にいる「ラウリ」の生を祝福する気配に満ちているじゃないですか。決して大ハッピーエンドとかではないけれども。そこが素晴らしいなと思いました。

宮内:バッドエンドにしようと思えばいくらでもできますけれども。ハッピーにするほうが、お話作りをするうえで難しいと感じていて、難しいと思うからこそ、そちらのほうにチャレンジしたいと考えています。だから、私は常になんとか明るくしようとするんですけれども、ちょいちょい失敗して暗くなる(苦笑)。今回は、作中人物に導かれてこうなった面があります。

西:また世代の話になりますが、私たちの若い頃は厭世的で、人間の暗い部分を吐露したほうが「本当のこと」を言ってるって思われがちだったじゃないですか。今は時代が悪すぎて、逆に明るいことを言おう、ポジティブなことを言おうっていうムーブメントがある気がしますが、特に私たちが20代の頃とか、露悪的なことを言うのがかっこいいみたいな風潮、なかったですか?

宮内:ありましたね。いろいろな悪しきテンプレがまかり通っていました。

西:もちろん人間の暗部も「本当のこと」だけど、人間が人間のことを思いやって美しい気持ちになって、前を向いて歩くことだって「本当のこと」なんじゃないのかなって私は思うんです。宮内さんの小説は、ラウリやイヴァン、みんなの「いいところ」ばかりを書いてるわけではない。いつかは全員死ぬ、それでも生きていく、その中に美しさがあるっていう「本当のこと」をただ書いていると感じます。

宮内:ありがとうございます。今回の小説を書きながら思ったのは、私にとって書くことはセラピーみたいなものなんだな、ということです。箱庭療法みたいなものかもしれません。例えば私は少年期にニューヨークで育っているので、ラウリとイヴァンのような別離も経験しています。それは普段、日常生活の中においては忘れているんだけれども、深いところにはまだ存在している。それを思い返して、フィクションの中ですけれども自分が辿ったものとは別の人生のルートを辿った人物の話を書くことで、自分の中でその経験や記憶を整理し直すような感覚がありました。むろん、小説を一回書いた程度で、癒えるものではないんですが。

西:書き続ける人はそうかもしれないですよね。それで癒えてしまったら、解決できてしまったら、書き続ける必要はないのかもしれないなって思います。

宮内:『くもをさがす』の場合は、いかがでしたか? 書いている時に西さんはかなりタフな状況にあったわけですけれども……。

西:あの本は、最後に「あなたに、これを読んでほしい」という一文を書いたんですが、読者の方が「『あなた』って、西さんのことじゃないですか?」と言ってくださって、本当にそうだなと思いました。違う世界線の「自分」に向けて書いたんだと思うんですよね。ただまぁ、本当にゲスいことを言うと、この経験を書いてカネにしたいって気持ちもありましたけどね。

一同:(笑)

宮内:ほんの少しだけ、元を取れましたか。

西:元を取らせていただく以上でした! 部数にももちろんびっくりしていますけど、読者の方からいっぱい手紙をいただけるのが本当に嬉しいんですよ。日々、大切なことを教えてもらっています。

宮内:私は、腎臓の数値が悪くてだいぶ落ち込んでたんですけれども、『くもをさがす』を読んで、こんなことで落ち込んでいられないなと思いました。

西:いやいや、落ち込んでええよ!

一同:(笑)

西:腎臓、大切やから。

西加奈子著『くもをさがす』(河出書房新社)
西加奈子著『くもをさがす』(河出書房新社)

大切なことだからこそクリシェになる

西:カナダで乳がんになり、手術した経験から決定的に理解することになったのは、自分の体は一つしかない、この体で自分の人生を生きていくしかないということでした。だからこそ、病状以外のところで自分に何が起こってるのかを知りたかったんですよ。例えば、誰かが怖いという言葉を発明してくれたから、自分の感情にその言葉を当てて使うんだけど、本当のところは怖いだけじゃないかもしれない。もしかしたらちょっと甘やかな気持ちもあるかもしれない。こんな経験なかなかできないから、探りたい、書きたい、残したいって気持ちがありました。そうすることで私の場合、わかりやすく救われました。さっき宮内さんが、自分にとって書くことはセラピーで、人生の経験や記憶を整理することだとおっしゃいましたが、私も全く同じことをしていたと思います。

宮内:……自分で言っといて何ですけど、書くことがセラピーって、よくあるクリシェすぎて恥ずかしくなってきました(笑)。

西:えっ!?(笑) でも、クリシェって、クリシェになり得るぐらい大切ってことじゃないですか。「人生はたった一回しかないんだ」とか、人生で今まで何回聞いたかなって思うけど、何回聞いても大切なんだと思うんですよね。「暗闇の中ではわずかな光も強烈に感じる」とか、何回もリマインドしなければいけないぐらい大切なことなんだと思うんです。

宮内:いや、おっしゃる通りです。私はもう少しクリシェと向き合わなければいけない。セラピーはクリシェだから恥ずかしいとか、そういうしょうもない自意識を脱しないとダメですね。

西:わかります。クリシェには強さがあるけど、強いがゆえのゴシック体の感じの押しつけがましさもあるじゃないですか。若い頃に、年上の人から「人生は一度きりだぞ」と言われても、うるせえって思ってた気がするんですよ。例えば、宮内さんご自身が仰ったからいいけど、誰かに「小説を書くことは、あなたにとってのセラピーですね」って言われたら腹立ちません?

宮内:腹立ちます(笑)。

西:例えば偶然見かけたポスターか何かで「人生は出会いがすべてである」ってゴシック体で書かれてたら、やかましいわ、ほんまその通りやけどおまえに言われたないねんって気持ちはあるじゃないですか。でも、そのベタを、どういうふうに表現するか。小説という形態は、ゴシックを明朝にするぐらいのことは、できると思うんですよね。どういう文脈でクリシェに巡り合ったかが大切だと思うので。

宮内:小説にはちゃんと、全てに文脈がありますからね。

西:そうそう。だから、対談とかインタビューって難しいんですよね。喋ったことが文脈なしにぽんっとタイトルにされたり、抜き出しでゴシックにされちゃうから。この対談のタイトルが「書くことは私にとってのセラピー」になっていたら地獄じゃないですか。

宮内:(笑)。

西:どういう文脈で出たかがわからないと、クリシェって、ものすごく危険ですよね。誰かから与えられたものではなく、自分から本当に理解して獲得していったものじゃないと、クリシェってなかなかうまく扱えないものなのかもしれない。がんの告知をされたとき、「まさか私が」って思ったんです。くっそベタやな自分、とびっくりしました(笑)。でも、それが、本当に私が思ったことだから。だからこそその辺り、私はこれから書く小説で、今まで以上に意識的に向き合おうと思っているんです。

宮内:私もこれから、そういったものを再発見していきたいですね。自分にとっては自明すぎて目に付かなかったものって、たくさんあるんだと思うんです。それは得てして、ベタなんですよね。その意味では、私の小説にしては珍しくエモさがあると思っていた今回の作品は、そこへ半歩踏み込んだものだったのかもしれません。

2023年7月10日 東京・築地にて

(聞き手・構成/吉田大助)

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