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与謝野晶子の真骨頂 「金色のちひさき鳥」で表現する“秋の発見”

 千年を経て愛される和歌と近現代の短歌。二首を比較しながら人々の変わらない心持ちや慣習に思いをはせ、三十一文字に詰まった小さくて大きな世界を鑑賞する『つながる短歌100 人々が心を燃やして詠んだ三十一文字』(あんの秀子著、朝日新聞出版)。特にガリ版で刷ったイラストは見ごたえ十分です。連載第5回は「秋の発見」をお届けします。

 歌の世界では、季節を表す新しい風物は、誰かに見いだされて詠まれ、それに伴って言葉もまた磨かれていきます。

「夕されば」の歌の「門田かどた稲葉いなば」「あしのまろ屋」には、“田園の発見”と言ってもいいような新しい感覚が込められています。源経信が、京の西、梅津うめづの里にあった源師賢みなもとのもろかたの山荘を歌人たちと訪れたときに「田家秋風でんかのあきかぜ」という題で詠みました。

「夕されば」は、夕方になると、という意味です。秋の夕べがやってくるのを、歌人は感覚を鋭くして待っているようです。

 家の門の近くに田んぼがあって、稲が実っています。都の貴族にとっては見慣れない光景だったでしょう。稲葉がなびいてざわざわと音を立てて、波立ちが移動していくのを眺めます。そして、葦で屋根をいた粗末な小屋に、秋風が吹いてきたのに気づく。

 三句「おとづれて」は単なる訪れではなく、音を立てていることを表すのに注意してください。波紋のような稲葉の空間的な動きに、音響の効果が加わった感じ。そうしてとらえられた秋風が、葦の小屋にたどり着く。あたり一面の秋。

 この歌は経信の子の源俊頼としよりが撰者をつとめた、『金葉きんよう集』に収められました。この和歌集は、『古今集』を踏襲してきたそれまでの勅撰集とは趣向を異にする歌集としても知られています。

あんの秀子著『つながる短歌100 人々が心を燃やして詠んだ三十一文字』

 近代の与謝野晶子は、叙景歌じょけいかにも新しさを連れてきました。

 散ってゆく銀杏いちょうの葉を「金色こんじきのちひさき鳥」と表現したのが、とてもわかりやすく親しみやすいです。この表現そのものが、発見だったのではないでしょうか。

「ちひさき鳥」は、どこから来たのか、どこへ行くのか。銀杏は街路樹によくありますが、「金色の」と形容されたとたん、特別なものとして感じられます。四句の「ちるなり」には、散っていることだなあ、と詠嘆の気持ちがあり、夕日の照り映える丘がその舞台としていかにもふさわしい。

 晶子の真骨頂だと思えるのは、小さな銀杏の葉に「かたち」を与え、ストップモーションがかかったようにして、一枚一枚の葉に存在感を持たせたこと。銀杏の葉に命を吹き込んだとでも言いましょうか。

 どちらも秋を彩るものとはいえ、稲葉と銀杏ではあまりにもちがうのでは、と思われるかもしれません。しかし、過去に多く詠まれてきた題材ではなく、生活感のあるもの、身近にあったものを歌に詠むことによって、新しい秋の世界を切り開いたことに共通するものがあります。

 歌の詠まれた光景は、経信は横に、晶子は縦へと広がる動きですが、どちらも黄金色、ということに気がつきました。