福岡伸一が紡いだ新しい「ドリトル先生」誕生!『新ドリトル先生物語 ドリトル先生ガラパゴスを救う』刊行記念随筆を公開
少年時代の夢がもたらした未来
思い続けていれば、かなう夢がある。少年時代の夢が、なんと還暦を迎えようとする頃に実現した。しかも、それが立て続けに起きた。私には、一生に一度でいいから、実際に行ってこの目で確かめたい場所があった。ひとつは、台湾の離れ小島、紅頭嶼(現在名、蘭嶼)、もうひとつは太平洋赤道直下のガラパゴス諸島である。どちらも絶海の孤島、といってよい。
小学校高学年のことだった。図鑑で、驚くほど優美な、大型のアゲハチョウの写真をみた。その名をコウトウキシタアゲハという。流線形の曲線を描く漆黒の前翅に、鮮やかな黄色の後翅、ワンポイントに真っ赤な襟巻きをし、黄色の後翅は見る角度によって妖しく七変化して輝きが揺らめくという。蝶オタクだった少年の興奮は頂点に達した。そんなアゲハチョウが大空を飛翔する姿は、この世のものとは思えないだろう。
しかし、この蝶は、台湾から小船に乗って数時間、ようやく到達できる紅頭嶼にしか棲息していない。おいそれと行ける場所ではない。コウトウショ。呪文のような響きのこの地名は頭の片隅にいつもあったが、その後、大人になるにつれ、よしなしごとに取り紛れるうちにいつしか、その思いは擦り切れていった。
ところがである。ふとした偶然で、ある出版社が、大人が少年時代の原点を取り戻すような本を作りませんか、と言ってきた。出版社の腹積もりは、せいぜい国内のどこか、ということのようだが、私は思い切って提案してみた。「台湾のコウトウショに行ってみたいです」「え、どこですか、それ」。そこから話はトントン拍子で進んだ。私は、東京―台北―台東、と空路で入り、そこから海路で紅頭嶼を目指した。荒波に揉まれながらトビウオが乱舞する海を突き進んだその先に、ぼんやりと山がちの島影が見えてきた。かくして、私は、とうとう念願のコウトウキシタアゲハと対面することがかなった。実物の蝶は、図鑑で見るよりも、何百倍も輝いて見える。図鑑ではわからなかったが、蝶が放つ甘い麝香の香りを感じることができた。私は、蝶に憧れた少年時代の気持ちを取り戻した。そして、この原点から再出発して、生命を考える旅を、生き直して見ようと思った(この旅に連れて行ってくれた出版社とは、集英社であり、旅の記録の一部は連載を終え、このあと加筆して書籍化する予定である)。
続いて、もうひとつのビッグイベントが私の身に舞い降りてきた。ガラパゴスだ。ここは、ものすごいスピードで進化が展開されている進化の実験場である。そしてここは生物学史にとっても記念碑的な場所なのである。今から200年ほども前の1835年秋、かのチャールズ・ダーウィンが立ち寄った場所だからだ。ダーウィンは、ガラパゴス諸島に適応的に棲息している生物たちに目を見張り、後に『種の起源』を書き上げるためのインスピレーションを得た。つまり、生物学を志す者にとっては聖地であり、私にとっては是非とも行ってみたい場所だった。しかも、私の夢は、身勝手にも贅沢なものだった。ただ観光に行くのではなく、ダーウィンと同じ航路をたどって、追体験したい、というものだった。このためには、船と船員をチャーターし、立入禁止の場所の許可を取り、レンジャーを同行させるなど、多大な準備と予算が必要な一大プロジェクトとなる。だから、はかない夢として終わってしまうだろう、と長いあいだ思っていた。
ところが捨てる神あれば、拾う神あり。私がいろいろな場所で、ガラパゴスに行きたい、と言っているのを聞きつけた、また別の出版社がこの計画に、支援を申し出てくれたのである。
こうして、パンデミックが世界を覆い尽くそうとするぎりぎりの直前、私は、積年の夢だったガラパゴス諸島への旅を実現することができた。ガラパゴスは遠い。東京からまず北米に飛び、そこから南米エクアドルに行く。そのあと赤道直下、太平洋上1000キロメートルも離れたところに3日がかりで行く。
実際、この目で見たガラパゴスは驚異と絶景の連続だった。ガラパゴスゾウガメやイグアナ、グンカンドリやペリカンなど、生き物たちが自由自在に繰り広げている生命系はまさに、人間の手が及ばないありのままの自然そのものだった。文明の利器やネット、AIなどの人工物と隔絶され、徐々に、自分も生身の生物として、自然の動的平衡と循環の中の一員であることを感得できるようになっていった。水平線から朝日が上り、何もない水平線に夕日が沈む。夜は満天の星。まさに人生観が一変するような体験になった。こんな夢が実現したのだから、いつ死んでも悔いはないとさえ思えた。が、もちろん支援してくれた出版社に原稿を書いて渡さねばならない(この寛容なる出版社は、朝日出版社である。旅の記録第一弾として『生命海流 GALAPAGOS』を上梓した)。
さて、ガラパゴスの旅の途上、ずっと疑問に思っていたことがあった。ダーウィンの乗ったビーグル号はイギリス海軍の軍艦であり、大砲も装備していた。当時20代半ばのダーウィンはたまたま同行を許されたいわば客員で、乗組員のほとんどは海軍兵士だった。つまり、ビーグル号航海の真の目的は、生物調査などではなく、大英帝国による海外への領土拡張と軍事拠点の確保を企図したものだった。実際、ビーグル号は南米ブラジル沿岸を南下し、後にイギリス領となったフォークランド諸島やフエゴ島などに寄港している。
だから下手をすると、ガラパゴス諸島だってイギリス領となり、軍事基地やリゾートとなってしまった可能性があった。そうならなかったのは、ビーグル号が出航してまもなく、突然、南米の小国エクアドルがガラパゴス領有宣言を発表し、移民団を送り込んで、自国の一部としての既成事実を作ってしまったからである。ビーグル号が到着したときには、もう手出しすることができなかった。結果として、ガラパゴスが欧米列強の手に落ちることを未然に防ぎ、島の大自然を守ることにつながったのである。当時、エクアドルは独立したて、政情も不安定だった。どうしてガラパゴスの領有なんてことを考えついたのだろう。
旅も終わりに近づいたある日、ガラパゴスの大海原を眺めながら、あるインスピレーションが閃いた。ダーウィンの時代、19世紀前半は、ちょうど、童話ドリトル先生の舞台と重なる。ご存知、ドリトル先生は動物語を話すことができる、心優しい英国紳士。この物語シリーズは、私の子ども時代の一番の愛読書であり、ドリトル先生は私のヒーローだった。そのドリトル先生が、ビーグル号出航のことを知り、急遽、先回りして南米におもむき、動物たちの知恵と力を借りながら、エクアドル政府要人をその気にさせて、ガラパゴスの自然を守ったことにすればいいじゃないか! そう思いついたのである。
そのとたん、頭の中で、ドリトル先生と愉快な仲間たちの、生き生きとした会話が聞こえてきた。そしてストーリーがするすると展開していった。私は、これまで自分が小説を書けるとは思ったことがなかった。作家がよく「登場人物たちが勝手に物語を進めてくれる」などと語るのを、そんなバカなことがあるのかと思っていた。ところが、それが自分の身にも起きたのだ。なるほど、こういうことだったのか。かくして、私の全身全霊のドリトル愛とオマージュが込められた『新ドリトル先生物語 ドリトル先生ガラパゴスを救う』が完成した。ドリトルファンの皆様に、ぜひ新しいドリトル先生を楽しんでいただければと思う。
還暦をすぎた私の目の前に現れた幸運な旅は、私にノンフィクションとフィクションの豊かな果実をもたらしてくれた。人生100年時代、原点を忘れないでいたことが、新しい未来を開いてくれた。