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なぜ江藤淳の「喪失」は書き換えられなければならなかったのか?/佐々木敦著『成熟の喪失』西村紗知さんによる書評を特別公開!

 ひとは何かを失わなければ成熟した大人になれないのか? 戦後日本の自画像として江藤淳が設定した「成熟」と「喪失」――いまなお多くの書き手を惹きつけてやまない問題系をめぐって、庵野秀明の主要作品を読み解きながら新たな「日本的成熟」を提示した佐々木敦さんによる本格評論『成熟の喪失 庵野秀明と〝父〟の崩壊』(朝日新書)。本書は何を実践したのか? 同じく江藤淳をめぐる評論「成熟と◯◯」を「文學界」に連載した、気鋭の文芸評論家・西村紗知さんが、「小説TRIPPER」2024年秋季号に寄稿した書評を特別公開する。

佐々木敦『成熟の喪失 庵野秀明と〝父〟の崩壊』(朝日新書)
佐々木敦『成熟の喪失 庵野秀明と〝父〟の崩壊』(朝日新書)

成熟論が成熟する方法

 本書は佐々木敦が「日本的成熟」を世に問うた仕事で、メインの対象は庵野秀明監督『シン・エヴァンゲリオン劇場版』と江藤淳『成熟と喪失』である。著者は、『ラブ&ポップ』『キューティーハニー』といった実写作品から、「エヴァ」以降の「シン」シリーズに至るまでの庵野監督作品を通じ、主人公の「成熟」の史的分析に取り組んでいる。キーワードは「他者」「公と私」である。例えば、『シン・ゴジラ』で描かれているのは、「自信と確信を持って積極的に「公」の一部になることで自己実現を果たそうとする「私」」であり、これに対し『シン・ウルトラマン』では「「私」から「公」はどのように発生してくるのか」という問題提起がなされているのだ、と。こういう説明を受けて、私は、確かに真希波・マリ・イラストリアスに手を引かれて宇部新川駅から走っていった、このことでもってなんとなく「他者」の不在という問題を乗り越えたかのようにみえた碇シンジというキャラクターが、その後「シン」シリーズにおいて生き続け、成熟していったのだというふうにして説得された。

 この作品分析への取り組みの補助線となるのが、江藤淳以降の「成熟」の概念史分析である。碇シンジの言う「逃げちゃ駄目だ」を浅田彰の「パラノ/スキゾ」の対概念で捉え直すことや、杉田俊介による「シン・エヴァンゲリオン」の分析に触れ、これが作品の内容を男性性の内在的批判へと過度に回収しすぎるきらいがあるのではないか、と批判を向ける。

 作品と概念それぞれの史的分析をつなぐのは、「ゴジラ」を論じ続け、江藤淳の言説の影響下で「日本」と「アメリカ」の対立軸で思考し続けた加藤典洋であるが、この先人に対して、「マーケティングという観点が著しく欠けている」といって、著者は冷めた感覚でいなしている。「ジャーゴンの氾濫」をかわし、「考察への欲望」が強いられがちな「エヴァンゲリオン」分析に対するほどよい距離感が、どの固有名詞に対してもキープされている。

 そもそも、成熟論を広く読まれるものとして書くのは難しい。

「父」や「母」といった概念を駆使した、エディプス・コンプレックスを下敷きにした批評はいくつもある。そして、いざ書こうとしたときに、ある面ではプラグマティックにそれなりに書けてしまうのだが、それだけにどうも具合が悪い。加えて、成熟とか、喪失とか、大人になるとか、子供で居続けたいとか、こういう話に興味のない人間がこの社会では大多数を占めている。

 他方、どうしてもそういう自己陶冶のモデルのうちに、自分を位置付けることをやめられない人間もいる。成熟という事柄に関しては、囚われる人間と囚われない人間との間で中間がなく、コミュニケーションも成立しがたい。成熟論の継承し難さ、という課題はあると思う。私の理解では、いま江藤淳の方法を採用することは江藤淳の理論的継承とはならない。彼のテクストにあるのは、そういうふうにしていかんともしがたく「父」や「母」という概念的規定に抗えなかった人間の姿である。それが多くの人間にとっての「人間」として受け入れられ、やがて戦後日本の「日本的成熟」そのものの似姿になってしまった、このことに『成熟と喪失』というテクストの魔力が宿るのであって、魔力は引き継げない。

 本書が成熟論で何を達成したのか。著者は成熟論特有の困難さを巧みに回避していると私は思う。

 本書の最後には、江藤淳の『成熟と喪失』の有名なテーゼについて、「喪失」に訂正線が引かれ別のテーゼが生み出されるに至るが、そこに訂正線を引くとは、ひたすら共時的に、事柄に即してやっていく、態度表明をはっきり打ち出すということではあるだろう。それはひとつには、「滅びてしまえばいいし、早晩滅びるに違いない」と、「喪失」に「没落」を代入し直すことであると理解した。あるいは、トゥルーエンドの脱ロマン化、とでも言えるような実践を本書はやったのだと私は理解する。佐々木が考えるところの、庵野秀明的方法、「エヴァ」の作り直し、「何度もトゥルーエンドを目指し、失敗し、やり直し、また失敗し、その間に年齢と経験を重ねて、そして遂に、この果てしなきトライアルを無理矢理にでも終わらせることにした」という、さながらその仕事に共鳴したような記述方式が取られていると考えるからだ。

 他にも感想を付け加えるなら、私は庵野秀明という人の才能について何も語る資格も能力もないが、『シン・ウルトラマン』で見た、巨大化した長澤まさみの映像にまだ心を奪われたままである。それはおよそ、当時多く批判があったような、女性蔑視だとか、そういう一面的で当座しのぎの言葉では説明がつかない。あの奇妙な一枚絵を産み出すに至った背景を説明するのに、どういった映像の史的分析が可能だろうか。こうした庵野秀明の映像感覚については、本書では度々「資格がない」といって細かい言及はなかったように思える。引き続き別の筆者による研究が必要となるだろう。

*本誌2024年秋季号、西村紗知氏の本文237ページ中段12行目の表現に誤りがありました。本ページは修正したものを公開しています。