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関ヶ原は家康と三成だけの戦いではない! 安部龍太郎著『関ヶ原連判状』末國善己氏による書評を特別公開

「関ヶ原は家康と三成だけの戦いではない! 裏面を見逃さぬ異色大作」
磯田道史(歴史学者)

 公武の対立という独自の視点から関ヶ原合戦前夜の舞台裏を描いた「関ヶ原もの」の安部龍太郎さんによる名作『関ヶ原連判状』(上巻・下巻/朝日文庫)が刊行されます。歴史学者の磯田道史さんも大推薦の歴史巨編です。足利将軍家の血を引き、当代一の文化人でもあった細川幽斎が「古今伝授」と「秀吉の密書」を武器に巡らす計略の行方は如何に――本書の魅力を、文芸評論家の末國善己氏が解説します。

安部龍太郎著『関ヶ原連判状』(上巻・下巻/朝日文庫)
安部龍太郎著『関ヶ原連判状』(上巻・下巻/朝日文庫)

 壬申の乱(672年)後、激戦地の近くに作られた不破関は、鈴鹿関、愛発関と共に古代の三関の一つに数えられている。交通の要衝にあった不破関の近郊は、南北朝時代、京を目指す南朝とそれを阻止する室町幕府が戦った青野原の戦い(1338年)、豊臣秀吉の没後、徳川家康(東軍)と石田三成(西軍)が天下の覇権をかけて争った関ヶ原の戦い(1600年)と何度も有名な合戦の舞台になっている。

 家康と三成が激突した“天下分け目”の一戦は、9月15日に始まり僅か半日で東軍が勝利した。ただ激戦地になったのは、不破関近くのいわゆる関ヶ原だけではない。東北では、三成の盟友だった直江兼続率いる上杉軍が、東軍の最上義光を攻め、最上が伊達政宗に援軍を求めたため戦線が拡大した慶長出羽合戦(北の関ヶ原)、西軍の大友義統が東軍支配下の豊後・杵築城を攻め、東軍の黒田如水(官兵衛)が救援に向かった石垣原の戦い(南の関ヶ原)など、全国各地で局地戦が行われている。

 関ヶ原の周辺でも、今川義元の人質だった少年時代から家康に仕える側近の鳥居元忠が約二千弱で伏見城に籠城し、一万近くの三成軍と戦った伏見城の戦い、西軍の北陸方面軍に加わっていた京極高次が寝返り約三千で居城の大津城に籠城、それを毛利元康、立花宗茂ら約一万五千が攻めた大津城の戦いなどの前哨戦が繰り広げられた。上洛命令を拒否した上杉景勝を討伐する家康軍に参加していた細川忠興の丹後田辺城を、小野木重次、前田茂勝ら西軍の約一万五千が攻め、留守を預かっていた忠興の父・細川幽斎(藤孝)が寡兵で城を守った田辺城の戦いも、前哨戦の一つである。

 誰もが知る関ヶ原の戦いだが、広く知られている合戦の顛末は後世に書かれた軍記物語がベースになっていて、必ずしも史実を伝えていないとされる。西軍と東軍の勝敗を決したのは小早川秀秋の裏切りで、激戦が続いているのに旗幟を鮮明にしない秀秋に苛立った家康が小早川隊に鉄砲を撃ちかけた「問鉄砲」のエピソードも有名である。「問鉄砲」は一次資料に記述がないこともあって疑問視する研究者が少なくなかったが、近年は、秀秋は開戦とほぼ同時に西軍に襲いかかり合戦は通説の7、8時間より早く決着していたとの新説も出てきている。新説の登場で様相が変わってきている関ヶ原の戦いだが、まだまだ諸説ある謎も少なくない。

 関ヶ原の戦いは、家康率いる上杉討伐軍が東北へ向かい、その隙に三成が挙兵、引き返してきた東軍と関ヶ原でぶつかって起きたが、これが東西から家康を挟み撃ちにする三成、景勝の戦略だったのか、偶発的に起きたのか見解が分かれている。

 家康は、豊臣恩顧ながら文治派の三成を憎む武断派の武将(加藤清正、福島正則ら)を身方に付け、来るべき決戦を有利に進めようとしていた。その家康が最も恐れていたのは、大坂城にいる秀吉の息子・秀頼が出陣し、武断派の武将が離反することだった。当然ながら三成は秀頼の出陣を求めるが、実母の淀殿が秀頼を危険にさらすわけにはいかないとして強硬に反対したという説が、よく知られている。ただ当時は三成が敗れたら豊臣家の存続が危ぶまれる極限状態だっただけに、織田信長、浅井長政、柴田勝家ら名将を間近で見てきた淀殿が、不合理な判断を下したのは不可解ではある。

 一方、自分を憎む武断派を引き止めたい三成は、大坂に残る武将の妻子を人質にしていたが、危害を加えれば離反が加速することを理解していた。それなのに、細川忠興の妻・玉(キリシタンで洗礼名ガラシャ)だけ命を落したのは、なぜか。

 西軍主力の毛利家は、当主の輝元が大坂城を動かず、現場指揮官になった安芸宰相秀元は有利な南宮山に布陣するも、前方にいた同族の吉川広家隊が邪魔で兵を動かせなかった。秀元は、戦闘参加を求める長束正家の使者に、兵に食事をさせていると弁明したことから後世に「宰相殿の空弁当」の故事を残すが、輝元隊、秀元隊が参戦していれば西軍が有利になった可能性もあるので、毛利の動きも不合理なのだ。

 関ヶ原の戦いに絞った歴史小説が、司馬遼太郎の名作『関ヶ原』以降、合戦の当日の各武将の動きを追った山本兼一『修羅走る関ヶ原』、三成の真意に迫る岩井三四二『三成の不思議なる条々』、関ヶ原以外の場所で発生した東軍、西軍の争乱を描く吉川永青『裏関ヶ原』、三成の腹心・島左近を主人公にした谷津矢車『某には策があり申す 島左近の野望』、小早川秀秋の動きに着目した矢野隆『我が名は秀秋』、大津城の戦いを石垣を積む職能集団・穴太衆と鉄砲を作る国友衆の戦いとして切り取った今村翔吾『塞王の楯』、家康と毛利輝元の対立として関ヶ原の戦いを再構築した伊東潤『天下大乱』、立花宗茂がなぜ家康が関ヶ原の戦いに勝利できたのかを語る羽鳥好之『尚、赫々たれ 立花宗茂残照』など枚挙に遑がないのは、独自の歴史解釈で数多い謎に挑めるため歴史小説作家としての腕が存分に振えるからではないだろうか。

 関ヶ原の戦いの前哨戦の一つと考えられていた田辺城の戦いをクローズアップした本書『関ヶ原連判状』は、従来の家康と三成ではなく、細川幽斎と三成という新たな対立軸を作り、そこに『古今和歌集』の秘伝の解釈である古今伝授と朝廷の動きを加えることで、まったく新しい歴史観を提示し、関ヶ原の戦いをめぐる多くの謎に合理的な解決を与えている。本書の単行本が刊行されたのは1996年10月(新潮社)なので約四半世紀ほど前になるが、物語を駆動するエンジンに独自の歴史解釈を使った本書は、派手な剣戟と合戦のスペクタクルが連続する面白さと、歴史の常識が覆される知的興奮の両方が楽しめまったく古びていない。それどころか、研究者が増え戦国史が更新されたことで著者の説が輝きを増してきているといっても過言ではないのである。

 古今伝授は和歌の秘伝だが、若い読者は刀槍を擬人化した人気ゲーム『刀剣乱舞』に登場するキャラクター古今伝授の太刀のイメージが強いかもしれない。古今伝授の太刀は、田辺城の戦いの時、当時、古今伝授の唯一の伝承者だった幽斎を守るため朝廷が和議の勅使として三条西実条、烏丸光広らを派遣、和議の成立後、幽斎が光広に贈ったとの伝承がある。幽斎が講和の勅使を迎える場面は、本書のクライマックスといえる。細川家と名刀といえば、忠興の愛刀・歌仙兼定も『刀剣乱舞』のキャラクターになっている。歌仙の銘は、幽斎が高名な歌人だったからとも、忠興が36人を手打ちにし三十六歌仙にちなんで付けられたからともされているが、作中で描かれる苛烈な忠興を見ると、36人くらい手打ちにしていてもおかしくないと思えるだろう。その意味で本書は、刀剣好きや『刀剣乱舞』のファンも間違いなく楽しめるはずだ。

 幽斎は後陽成天皇の弟・八条宮智仁親王に古今伝授を始めるが、それは歌道の伝統を守るだけでなく、朝廷を動かし豊臣とも徳川とも異なる第三の勢力を作る謀略戦の一端でもあった。まず幽斎は、太閤秀吉の没後も豊臣政権で重責を担う加賀の前田家を身方に引き入れようとするが、その前に三成派の一番家老・太田但馬守が立ちはだかる。家康に難癖を付けられた前田家は、幽斎の交渉で芳春院(前当主・利家の正室で、現当主・利長の母)を人質として差し出す条件で和解した。幽斎は芳春院の手紙を穏健派の前田家二番家老の横山大膳に託し、利長を叛意させようとする。幽斎が、信長に攻められた白山神社の戦闘集団・牛首一族の生き残りの石堂多門を大膳の護衛に付ければ、三成は名将・蒲生氏郷の配下で侍大将を務めた蒲生源兵衛郷舎に芳春院の手紙を奪うよう命じる。武芸の腕も優れていれば頭も切れる多門と源兵衛が繰り広げる死闘と頭脳戦が物語を牽引するだけに、息つく暇がないほどである。

 もう一つの幽斎の切り札が、それが公になれば秀吉の威光にも豊臣家の威信にも傷が付くという太閤秀吉の密書に、幽斎に賛同する大名が署名血判した連判状である。密書の内容が不明のまま多門と源兵衛による連判状の争奪戦が激化する展開は、三巻が揃うと幕府はもとより朝廷さえも脅かす大秘事が明らかになる武芸帳を剣豪、忍者が入り乱れて奪い合うも、なかなか大秘事が何かは明かされない五味康祐の名作『柳生武芸帳』を彷彿させる。

 五味は、近代批判と古代礼賛を軸に日本の伝統への回帰を主張した日本浪漫派の指導的立場だった保田與重郎に師事しており、幕府と朝廷を巻き込む陰謀劇は、幕府を象徴する武・俗、朝廷を象徴する文・雅の相克と位置付けられていた。著者も、武力がなければ生き残れなかった戦国時代には発言権が弱かったと考えられていた朝廷が、大名が大身になるほど欲しがる官位の発給権などを使って政治的な影響力を保持していた事実を掘り起こしていく。著者は、秀吉が武士の頂点である征夷大将軍ではなく、天皇を補佐する関白として天下に号令したため、豊臣政権は朝廷の意向が無視できず、代替わりした秀頼も補佐する三成も朝廷の方針に縛られていたとする。歴史研究でも、秀吉が権力を掌握する過程において朝廷が果たした役割や、豊臣政権と朝廷の関係などが明らかになってきているので、著者は最新の研究成果をいち早く物語に取り込んだといえる。それだけに、朝廷が持つ文化、伝統といったソフトのパワーを巧みに利用し、幽斎が自分が有利になるように秀頼、三成、淀殿、毛利の諸将を操っていく中盤は、一種の天皇制論としても、ミステリとしても秀逸である。

 幽斎ほど有職故実に通じていないが謀略には長けている三成は、幽斎の手を読み、それを封じる朝廷工作を仕掛ける。多門と源兵衛の戦いが、次第に三成派の公家と幽斎派の公家による暗闘にまでスケールアップするだけに、関ヶ原の戦いの結末を知っていても先が読めず圧倒的なサスペンスに引き込まれてしまうだろう。

 宗教学者の山折哲雄は『日本文明とは何か パクス・ヤポニカの可能性』の中で、太平の世が300年以上続いた平安時代、江戸時代を分析し、日本には神道と仏教、公家と武家と寺社などの異なる価値観を、決定的な対立に至る前に調停する寛容なシステムがあり、その役割を朝廷(天皇)が担ってきたことを明らかにした。東軍とも西軍とも別の第三勢力を作り、そのための協力を朝廷にお願いする幽斎の策は、山折が描いた日本文明論を想起させる。伝統と文化の力で戦国末期から江戸初期の政治を動かそうとした幽斎の戦いは、日本の伝統をこれからどのように生かすべきかを考えるヒントも与えてくれるのである。

 幽斎から古今伝授を受けた八条宮智仁親王は、それを後水尾天皇に伝えた。江戸幕府を開いた徳川家は、公家諸法度で朝廷と公家の統制を目論んだが、それに文化の力で抗ったのが後水尾天皇である。後水尾天皇と幕府の暗闘は、本書の続編的な性格もある隆慶一郎『花と火の帝』に詳しいので、併せて読むことをお勧めしたい(著者の死で、天皇の文化的闘争が描き切れていないのは残念)。戦国大名と朝廷の関係は著者のライフワークになっていて、本書にも需要な役割で登場する近衛前久の視点で信長を描く『信長燃ゆ』などを読むと、著者の歴史観がより深く理解できるはずだ。

 家康を主人公にした2023年のNHK大河ドラマ『どうする家康』は、三方ヶ原の戦いで徳川軍が武田信玄を追撃した理由、長篠の戦いで武田勝頼が馬防柵を張りめぐらせて待ち受ける織田・徳川連合軍に突撃した理由など、諸説ある歴史の謎は通説の中から一つを選ぶことで物語を進めている。恐らくドラマのターニングポイントになる関ヶ原の戦いも、歴史好きは脚本家がどの説を選ぶか楽しみにしているのではないか。幽斎の怪しい動きや朝廷の役割が取り上げられる可能性は低いが、本書を先に読んでおくと省略された部分も分かるので、戦国史の奥深さに触れることができる。