衝撃的な冒頭シーンから引き込まれる一冊! 真保裕一『英雄』内田剛さんによる書評を特別公開
■戦後史の空気を再現した傑作サスペンス
なんと濃密なファミリーストーリーなのだろう。昭和から平成、そして令和という時代を貫く、堂々とした風格を感じる傑作の誕生だ。作家が紡ぎだした創作物であると同時に時代が生み出したドラマティックな一冊であると言ってよいだろう。むせ返るような時代の空気をそのままに再現させ戦後史を貫く迫真の物語。真のリーダーが不在となり混沌とした時代の節目にこの『英雄』が登場したことには大きな意味があるのだ。
本書は「小説トリッパー」連載をまとめた一冊だが、この国を代表する新聞社と所縁のある発行元から生み出されたこともまた意義深い。壮大なスケールで時代を俯瞰し人間の営みの暗部を照らしながら物語には社会や経済のみならず三面記事の要素まで凝縮されている。新鮮なニュースを閉じこめた新聞をめくるような感覚で、予測不能のストーリーがダイナミックに転がっていく。
「夜遅くに忙しなくドアがノックされて、否応もなく人生の扉が押し開かれた。」
読みどころしか見当たらない本書であるが、衝撃的な冒頭シーンから引きこまれる。大企業である山藤グループの創業者で総帥でもあった南郷英雄の射殺事件。青天の霹靂のような惨劇の一報から主人公・植松英美の運命の歯車が激しく動きだす。犯人はいったい誰なのか。八十七歳という老境にありながらなぜ殺されなければならなかったのか。「英雄」であった実父の死に隠されていた知られざる過去。そこには英雄が頑なに口を閉ざし続け、墓場まで持って行こうと考えていた禁断の真実が隠されていたのである。
裸一貫から身を起こし企業グループの頂点を極めた英雄。その栄華が眩いほど犠牲もまた色濃く影を落とす。戦災からの復興の光の陰にあった深すぎる闇。会社の事業を拡大するために、生き残るか消されるかの手段を選ばぬ闘いの毎日。時を超えた鮮烈な運命の日々が、真っ直ぐに読む者の魂を撃ち抜く。戦後の混乱の中で生き残るために、筆舌に尽くしがたい艱難辛苦の現実があったのだ。頼りになるのは商売の才能と時の運だけではない。それぞれの正義で奪い合う富と地位。いま当たり前のように暮らしている社会は、こうした先人たちの血と汗と涙で踏み固められた文字通りの焦土の上に成り立っていることを、肝に銘じなければならないだろう。
思いもよらない実父の死から植松英美は、否応なく自分のルーツと己自身とも真正面から向き合うこととなる。父のことは一切語らずに七年前に亡くなった母・秋子と英雄の出会いの秘密。なぜ母はたった一人で英美を産む決意をしたのか。切っても切れない血脈は時代を貫き、闇を容赦なく切り裂いていく。加害者の側にも胸を≠ォむしられるような事情があり、これまで出合ったことのないような圧巻の読み応えにページをめくる手がまったく止まらない。真実を追いかけるほどに闇が深まるスリリングなサスペンスであり、深いメッセージ性を湛えた極めて上質なミステリーでもあり、抗えない運命を背負った者たちが築き上げた壮絶な人間ドラマでもある。」
南郷家の遺産相続をめぐる仁義なき骨肉の争い。壮絶な駆け引きから偽らざるむき出しの素顔が暴きだされる。心の底から湧き上がるような慈愛があれば怨念にも近い情念もある。複雑に愛憎入り乱れた感情の発露が生々しく迫ってくるのだ。英雄の非摘出子である英美は果敢に遺産相続の権利を請求する。闇に葬られていた真実を自らの手で追求する覚悟を決めたのだ。ここから未知の世界を切り開く闘いの火ぶたが切って落とされたのである。
まったく謎の存在であった父の本当の姿を見つけた瞬間、英美はどんな想いを胸に抱くのか。親子それぞれに抱えた出生の秘密。過去から現在へと複雑に絡み合った運命の糸がほぐれ、この物語は完結する。時を超えて受け継がれるのは熱き情熱と尊き使命。しかしこれはひとつの一族の、とある父と娘の物語に留まらない。不思議なほどの普遍性までも感じ取ってしまう。濃密な小説世界に没入しながら読者はきっと自分の半生を振り返るのではないだろうか。親兄弟といった親類のみならず仕事の遍歴、かけがえのない仲間たち。我が身を取り巻く様々な顔が走馬灯のように頭に浮かんでくるに違いない。そして最も大きな愛の証ともいえる名前に込められた意味合いを。
『英雄』というシンプルで揺るぎないタイトルからも、著者の決意と覚悟までもが伝わってくる。「英雄」は文字通りヒーローの意味でもあれば、南郷英雄という物語のキーパーソンの名前でもある。読みながら頭の中でクラシックの歴史に燦然と輝く大作、ベートーヴェンの交響曲第三番「英雄」が鳴り響いていた。突然に鳴り響く冒頭の音から始まり魂を震わす葬送のメロディー、威厳に満ちたリズム、そして高揚感と躍動感あふれるフィナーレ。我を忘れて立ち尽くすしかない凄みのある余韻は、そのまま読後の印象と重なるものであった。まさしくスタンディングオベーション。これまで数々の名作を世に問うてきた著者の新たな代表作となるに間違いない。骨太な感動は記憶にしっかりと刻まれた。心の底から大きな拍手喝采を送りたい。