宮内悠介さんがコンピュータ・プログラミングを通して描く物語/『ラウリ・クースクを探して』刊行記念エッセイ特別公開
小学生のころ、父の仕事の関係でアメリカにいて、夏休みのたびに一時帰国していた。祖父母の家に泊めてもらい、その近くに住んでいた従兄弟に遊んでもらった。これが、二週間くらいのことであったのか、一ヵ月くらいのことであったのかは、もう記憶にない。ただ、この一時帰国がとても楽しみであったことはよく覚えている。八〇年代の終わりごろのことで、まだ景気がよく、存命だった祖父が車を運転して皆を伊豆につれて行ったりした。池袋のサンシャインシティが好きだった。どこもかしこも明るくて、日本という国にはなんでもあるような感じがした。
あこがれの従兄弟が一人いた。いつも明るくて、皆の中心にいるような子供だった。その従兄弟がMSXという8ビットのコンピュータを持っていて、それを使って自作のゲームをプログラミングしていた。ゲームを自分で作ることができる、ということがぼくには衝撃だった。
それで従兄弟からプログラミングを教わり――コンピュータ本体は持っていないので、紙、カレンダーの裏とかに自分のプログラムを書きはじめた。そのときどういうものを書いたかは覚えている。超小型版のドラゴンクエストみたいなやつだ。フィールドの左下に町があり、すぐ右上、ゲーム内の縮尺で言うと隣駅くらいのところに、魔王の城がある。画面は白黒で、「M」の文字が山、「~」の記号が海や川だ。でも、ぼくの頭のなかには、映画の『指輪物語』みたいなそういうイメージが広がっていた。紙とペンだけで、『指輪物語』みたいな世界が作れる。たちまち、ぼくはプログラミングの虜になった。
念願のコンピュータ本体、MSXを買ってもらえたのは、確か小学五年生くらいのとき。当時のモニタはでっかいブラウン管だったので、学習机の半分くらいがそのコンピュータのセットによって占められた。そこからは、プログラミング三昧の日々になった。
MSXは日本発のコンピュータなので、情報源も日本語になる。アメリカにも日本語の書籍を扱う店があったので、そこで、「MSX・FAN」という雑誌を購読した。この雑誌が楽しみだった。目当ては、読者が投稿するゲームプログラムだ。プログラムそのものが記載されているので、それを入力すればゲームを遊ぶことができる。これがいいのは、ちょっとしたプログラミングのテクニックを覚えられることだ。当時はそういう雑誌がけっこうあった。
そのうちに、山はちゃんと山っぽくなり、海や川もちゃんと海や川っぽくなった。BGMを鳴らすこともできるようになった。いまのコンピュータなら簡単にできることだけれど、MSXは仕組みが原始的だから難しく、だからこそ面白くもあった。
一画面プログラムというやつがあって、それは何かというと、ちょうど一画面に収まる短いプログラムでちょっとしたゲームを作るというものだった。いかにしてプログラムを切りつめるかという、パズルのような要素がある。時間をかけずに作れるというのもよくて、ぼくはよく放課後に一画面プログラムを作った。
なぜあんなにもプログラミングに嵌まったのか、いま、正確なところを説明することは難しい。小さな箱庭かもしれなくとも、自分の手で一つの世界を作り出すことができるのは、それはもちろん面白い。単純に、パズル的な楽しさもあった。あるいはもっと抽象的に、未来に触れているという感触もあったように思う。そういうさまざまな要因が、複合していた。
いまもMSXを懐かしむ人々は少なからずいて、日本のほか、スペインやブラジルにも小さなコミュニティがある(MSXという規格がそれなりに成功を収めたのが、日本のほか、スペインやブラジルだった)。二〇二三年現在も、新作のゲームが作られていたりする。かくいうぼくも五年ほど前、スペインで開催されたコンテストに作品を投じた。結果は、十二作品中の五位。まあこんなところだろう。
そういうわけだから、コンピュータ、とりわけMSXに対する思い入れは深い。プログラミングは、ぼくにとって最初の創作でもあったのだ。そのわりに、ぼくは自分の小説で正面からコンピュータやプログラミングを扱ったことがほとんどなかった。いまは当たり前にそれが普及しているというのもあるし、当時の夢であったAIの類いは、現在、かなりの域に達しているからだろう。
そんないまだからこそ、一度、本格的にコンピュータを扱った作品を書いてみたいという気持ちがあった。大袈裟に言うならば、コンピュータとは人類にとってなんであったかを問うような、そういう作を。ついでに、できることなら大好きなMSXも登場させたい。そうやって書かれたのが、このたび上梓する長編、『ラウリ・クースクを探して』になる。
舞台にはエストニアという国を選んだ。ヨーロッパのバルト三国にある旧ソビエト国家だ。
なぜか。旧ソビエトは、実はMSXコンピュータを輸入していたことで知られているのだ。というのも、冷戦時代、ソビエトは対共産圏の輸出規制によって高性能のコンピュータを輸入することができなかった。そこで、彼らは低機能の8ビット機を大量に輸入することにした。
このとき、日本のヤマハがソビエト向けのMSX(КУВТ)を作り、これが教育用として学校に配備された。当時、ソビエトではコンピュータが高価であったため、人々が触れることのできるコンピュータはおのずと学校にあるヤマハの教育用のMSX(КУВТ)となった。それで、「ヤマハ」がコンピュータの代名詞になったという話もある。
ソビエトでMSXは宇宙開発にも使われ、宇宙ステーションのミールにも搭載された。
とにかく、子供時代にMSX(КУВТ)に触れた人はたくさんいたというわけだ。だから、少年時代、このMSX(КУВТ)に触れた人物を主人公に据えようと決めた。ほかに取り柄のない、ただのコンピュータ好きの少年。それが歴史に翻弄され……と、だんだんと大枠が固まってきた。
扱うのは、エストニアという国の三つの時代だ。一つは、旧ソビエト時代。もう一つが、ソ連崩壊後の混乱期。最後に、現代。この三つの時代をまたいだ、一人の男性の半生を描こうというのが、今回の試みとなる。ただのコンピュータ好きの少年が、自分と世界とをつないでくれたコンピュータとともに成長し、激動の歴史のなかで葛藤し、生きたその過程を。歴史に残るような英雄ではない、そういう一人の人間を。
なお、最後の現代のパートが、エストニアという国を選んだ最大の理由でもある。というのも、現在のエストニアは、図抜けたIT先進国として知られるからだ。
国民のほとんどがマイナンバーカード(eIDカード)を持ち、二〇〇五年には世界ではじめてとなるインターネットによる地方選挙を行い、〇七年には、国政選挙でのインターネット投票を可能にした。子供がプログラミングを学び、携帯電話から駐車料金を支払い、個々人の健康医療データはクラウドに保存されているという。これらはつまり、ありえるかもしれないぼくたちの未来でもある。